できごと

死亡表と統計のはじまり

Graunt and the first life table
AD1662年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1662年の版図を描いています(22勢力)。

概要

ロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

17世紀のロンドンでは、毎週木曜日になると一枚の紙が刷られて売られた。死亡週報(ビルズ・オブ・モータリティ)である。始まりはペストだった。16世紀の終わりから、市当局は疫病の広がりをつかむため、市内の各教区に、その週に葬った人数と洗礼を授けた人数、そして死因を報告させた。1603年の大流行のころからは、これが毎週欠かさず続くようになる。

死因を確かめたのは、教区に雇われた「サーチャー」と呼ばれる老女たちだった。遺体を見に行き、何で死んだかを判定する。医学の訓練は無く、報酬もわずかで、遺族から金を受け取ってペストを別の病名に書き換えることもあったという。家がペストと分かれば一家ごと閉じ込められたからである。死因の欄には「老衰」「歯(乳歯の生えるころの死)」「驚愕」「悲嘆」「王の病(瘰癧)」、さらには「惑星に打たれて」といった項目まで並んでいた。

市民はこの紙を、ペストの死者が増えているかどうかを見るために買った。数が跳ね上がれば、余裕のある者は田舎へ逃げる。それ以外の使い道で、この紙を読む者はいなかった。何十年ぶんもの数字が、ただ積み上がっていた。

それを読んだのが、ジョン・グラントである。1620年にロンドンで生まれ、徒弟から始めて服飾の小間物を扱う商人になった。大学には行っていない。商売で成功し、市の役職や民兵隊の将校も務めた。彼は数十年ぶんの週報を集め、表に起こして足し上げた。1662年、その結果を90ページほどの小冊子にまとめた。『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』である。

彼が見つけたことは多い。まず、生まれる子は男が女よりわずかに多く、おおよそ14対13だった。それでも大人になるころに男女の数がほぼ釣り合うのは、男のほうが戦争や航海や事故で多く死ぬからだと彼は考えた。この規則正しさは、のちに神の摂理の証拠として神学者たちに好んで引かれることになる。

次に、死因の割合は年によって揺れながらも、大きな形は驚くほど安定していた。だから、ある死因だけが突出した年は異常だと分かる。ペストの年には、公式のペストの死者だけでなく「熱病」や「発疹」の数も一緒に跳ね上がっていた。週報のペストの数は実際より少なく、隠された死者が別の欄に紛れ込んでいる、と彼は読み取った。

彼はロンドンの人口も推し量った。年間の埋葬数、出産できる年齢の女の数、一家あたりの人数を組み合わせ、およそ38万4000人という数字を出した。当時は「ロンドンには200万人いる」といった言い方が平気で通っていたから、彼の推計ははるかに現実に近かった。さらに、ロンドンでは毎年の埋葬が洗礼より多いのに、人口は増え続けている。ならば地方から絶えず人が流れ込んでいるはずだ、と彼は論じた。都市は人を飲み込み、農村がそれを補っている。

最後に、彼は生まれた100人が何歳まで生き残るかを示す表を作った。6歳まで生きるのは64人、16歳で40人、26歳で25人、36歳で16人、46歳で10人、56歳で6人、66歳で3人、76歳まで残るのは1人。週報には年齢が書かれていなかったので、多くは推定で補った粗い表である。それでも、これが人の一生を数で表した最初の生命表とされている。

グラントがしたのは、社会を数で見ることだった。それまで国家を論じる言葉は、法と歴史と道徳だった。彼は数えられるものを数え、そこに規則を見つけ、そこから政策を考えた。友人のウィリアム・ペティはこの方法を「政治算術」と名づけて広げた。ペティこそ本当の著者だという説が長くささやかれたが、ペティ自身がグラントを著者として何度も挙げており、いまはグラントの著作と考えられている。

小冊子は評判になった。国王チャールズ2世が目を留め、創設まもない王立協会の設立は1663年、商人のグラントを会員に迎えた。学者や貴族の集まりに商人が入るのは異例で、国王は「同じような商人がいれば、ためらわずに入れよ」と言ったと、協会の初期の歴史に記されている。

だが晩年は恵まれなかった。1666年のロンドン大火で店と財産を失い、カトリックに改宗したことで公職からも退いた。1674年、彼は貧しいうちに53歳で亡くなった。

ロンドン大火に関わる図版:Great Fire London
ロンドン大火Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

仕事を引き継いだのはエドモンド・ハレーである。1693年、ハレーはドイツのブレスラウ(いまのポーランドのヴロツワフ)の教会記録を使って、より精密な生命表を作った。ブレスラウの記録には死者の年齢が書かれていたからだ。ハレーはそこから、ある年齢の人があと何年生きる見込みがあるかを計算し、年金の正しい値段を示した。当時の英国政府は年齢に関係なく同じ値段で年金を売っており、若い買い手ほど政府が損をしていた。

それまでの生命保険は、年齢を問わず同じ掛け金で、実態は賭けに近かった(生命保険の始まり)。1762年にロンドンで設立されたエクイタブル生命保険協会は、数学者ジェームズ・ドドソンの計算をもとに、年齢ごとに掛け金を変える最初の近代的な生命保険になった。

その先には、最初の国勢調査のような国勢調査、ジョン・スノウのコレラ地図の疫学、フローレンス・ナイチンゲールが軍の死者を図にして示した統計が続いていく。始まりは、ロンドンの小間物商が、誰も読まなくなった紙の束を一枚ずつ数えたことだった。

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