概要
ロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
ロンドンでは、1603年から、教区が毎週、**死亡週報(Bills of Mortality)**を出していた。
きっかけはペストである。市当局が、疫病の広がりを把握するために、各教区の教会が埋葬と洗礼の数を報告する仕組みを作った。
内容。その週に埋葬された人数、洗礼された人数、そして死因。
死因を調べたのは「**サーチャー**」と呼ばれる老女たちである。教区が雇い、遺体を見て死因を判定した。医学の訓練は無い。報酬は少なく、遺族から金をもらってペストを別の死因に書き換えることもあった。
だから、記録は不正確である。
死因の一覧には、こんな項目がある。「老衰」「歯(乳歯が生えるときの死)」「驚愕」「王の病(結核性リンパ節炎)」「臌脹」「悲嘆」「突然」「星に打たれて(planet-struck)」。
この紙は、毎週、印刷されて売られた。人々は、ペストの数を見て、街に留まるか田舎へ逃げるかを判断した。
そして、それ以外の用途では、誰も読まなかった。
**ジョン・グラント**。1620年生まれ。ロンドンの小間物商(服飾雑貨商)。徒弟から始めて店を持ち、市の役職や民兵隊の役職も務めた。大学教育はない。
彼は、この紙の束を、**数十年ぶん集めて、集計した**。
**1662年**、『**死亡表に関する自然的および政治的諸観察**』。90ページほどの小冊子。
**彼が見つけたこと**。
(1)**男児の出生が、女児よりわずかに多い**。おおよそ14対13。それでも成人の人口は釣り合う。男のほうが死にやすいから。
(この事実は、後に「神の摂理の証拠」として神学の議論に使われた。一夫一婦制が自然の秩序である、と。)
(2)**死因の分布に、規則がある**。年ごとに変動するが、大枠は安定している。ある死因が突出したら、それは異常である。
(3)**ペストの年の死者数**。公式のペストによる死者数は、明らかに過少である。他の死因(「発疹」「発熱」)が同時に跳ね上がっているから。
(4)**都市の人口**。彼は、埋葬数と出生数と、家族あたりの人数から、ロンドンの人口を推定した。約38万4000人。当時、「200万人」といった数字が流布していた。彼の推定のほうが、はるかに正確だった。
(5)**移入**。ロンドンでは、埋葬が洗礼を上回り続けている。それでも人口が増えている。だから、地方から絶えず人が流入している。
(6)**生命表**。
彼は、100人が生まれたとして、何歳まで何人生き残るかの表を作った。
100人のうち、6歳まで生きるのが64人。16歳まで40人。26歳まで25人。36歳まで16人。46歳まで10人。56歳まで6人。66歳まで3人。76歳まで1人。
(データの制約が大きく、多くは推定である。それでも、これが**最初の生命表**とされる。)
**意味**。
彼がしたのは、**社会を数で見る**ということである。
それまで、国家を論じる方法は、法と、歴史と、道徳論だった。グラントは、数えられるものを数え、そこから規則を読み取り、政策への示唆を導いた。
友人の**ウィリアム・ペティ**が、これを「**政治算術(Political Arithmetick)**」と名づけて発展させた。
(ペティが『諸観察』の真の著者だという説が長くあったが、現在は否定されている。ペティ自身がグラントを著者として繰り返し言及している。)
**評価**。
本は評判になった。国王チャールズ2世が推薦し、**王立協会**が彼を会員に選んだ。商人が会員になるのは異例で、国王が「同種の商人がいれば、遅滞なく入れるように」と述べた、と記録にある。
**その後**。
1666年、ロンドン大火。グラントは店と財産を失った。その少し前にカトリックに改宗しており、1678年の「カトリック陰謀事件」の反カトリック感情の中で、不遇のうちに死んだ(1674年)。
**ハレー**。
1693年、**エドモンド・ハレー**(彗星の人)が、ドイツのブレスラウ(現ヴロツワフ)の死亡記録を使って、より精密な生命表を作った。
ブレスラウの記録が優れていたのは、**年齢が書かれていた**からである。ロンドンの週報には、年齢がなかった。
ハレーは、この表から、「ある年齢の人が、あと何年生きる見込みがあるか」を計算し、そして**年金の適正な価格**を計算した。
当時、政府は年金を年齢に関係なく一律の価格で売っていた。若い人が買えば、政府が損をする。ハレーはそれを数字で示した。
(政府がこの助言に従うまでに、さらに数十年かかった。)
**そして保険**。
1762年、ロンドンで**エクイタブル生命保険会社**が設立された。ジェームズ・ドドソンの計算に基づき、**年齢ごとに保険料を変える**、最初の近代的な生命保険。
それ以前の生命保険は、年齢を問わず一律で、実質的には賭博だった。
以後、統計は、国勢調査、疫学、品質管理、経済指標、世論調査へと広がる。
出発点は、ロンドンの小間物商が、誰も読まない紙束を数えたことだった。