ビスマルクの社会保険
概要
工場で働く人が増え、病気や怪我で働けなくなれば、家族ごと暮らしが崩れた。その不安を掬い上げて、社会主義の運動が伸びていく。ビスマルクは弾圧の法で運動を禁じる一方、労働者に別のものを差し出した。1883年の疾病保険法は、労働者と雇い主から保険料を集め、病気のときに医療と手当を出す。翌年には労災、1889年には老齢と廃疾の保険が続いた。慈善でも救貧でもなく、あらかじめ皆で金を出し合って備える。国家が国民の生活の危険を引き受ける仕組みは、ここから世界に広がった。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
本文
1871年、プロイセンを中心にドイツの国々がまとまって、ドイツ帝国が生まれた(ドイツ帝国の成立)。新しい帝国では、工業が急速に伸びた。ルール地方の炭鉱や製鉄所、ベルリンの機械工場に、農村から人々が流れ込む。彼らの暮らしは、賃金だけが頼りだった。病気になれば給料は止まり、工場で腕を失えば仕事も失う。年を取って働けなくなれば、貧しさの底に落ちる。村にいたころのように家族や地主が面倒を見てくれるわけではない。一人が倒れると、家族ごと暮らしが崩れた。
その不安をすくい上げて伸びたのが、社会主義の運動である。労働者の政党は帝国議会に議席を得て、その数を増やしていった。帝国宰相のビスマルクにとって、これは国家の秩序を脅かすものに見えた。

ビスマルクの打った手は二つあった。一つは弾圧である。1878年、皇帝を狙った暗殺未遂事件が続いたのをきっかけに、彼は社会主義者鎮圧法を通し、社会主義の結社や集会や新聞を禁じた。もう一つは、労働者が社会主義に求めていたものを、国家が先に差し出すことだった。1881年、皇帝ヴィルヘルム1世の名で出された詔書は、労働者の暮らしを守ることを国家の務めとして掲げた。ビスマルク自身、労働者に国家の恩恵を感じさせ、国につなぎ止めることが狙いだという趣旨を、隠さずに語っている。のちに「アメとムチ」と呼ばれる政策である。
差し出す形として選ばれたのが、保険だった。施しではない。施しを受ける者は恥を感じ、受ける者を役所が選ぶ。保険なら、あらかじめ皆で少しずつ金を出し合い、病気や事故に見舞われた者がそこから受け取る。保険料を払っているのだから、受け取るのは権利である。危険を大勢で分け合うという考えは、17世紀から18世紀にかけてロイズと海上保険の海上保険や生命保険の始まりの中で育っていた。ビスマルクは、それを国が法律で、働く人々に当てはめたのである。ただし、彼が当初望んだ国庫からの大きな補助は議会で削られ、費用の多くは労働者と雇い主が負うことになった。

1883年6月15日、疾病保険法ができた。工場などで働く労働者は保険に入り、保険料の3分の2を労働者が、3分の1を雇い主が出す。病気になれば医者にかかれ、働けないあいだは賃金の一部が手当として出る。保険を営むのは、国の役所ではなく、地域や企業ごとの疾病金庫だった。
翌1884年には、労災保険法が続いた。費用は雇い主が負う。それまで、工場で怪我をした労働者は、雇い主の落ち度を自分で裁判で証明しなければ、何も得られなかった。新しい法のもとでは、誰の落ち度かを問わず、仕事の上での怪我であれば補償が出る。そして1889年、老齢・廃疾保険法ができた。働けない体になった者と、70歳を超えた者に年金を出す。当時、70歳まで働き続けられる労働者はそう多くなく、多くの人は受け取る前に死んだ。それでも、国家が国民の老後と病と怪我の危険を、制度として引き受けたことの意味は大きかった。

狙いは、当たらなかった。社会主義の運動は止まらなかった。1890年に鎮圧法が期限を迎えて廃止されると、社会民主党は勢いを増し、1912年の選挙では帝国議会の第一党になった。ビスマルクは1890年、若い皇帝ヴィルヘルム2世と対立して職を去っている。それでも、仕組みは残った。作った者の狙いが外れても、作られたものは生き延びることがある。
各国が、このドイツの形にならった。オーストリア、デンマーク、そして1911年にはイギリスが国民保険法を作った。日本も、1922年の健康保険法で、働く人と雇い主が保険料を出し合うこの形を取り入れた。明治の日本が恤救規則で、救済は身内の情けに任せるとしていたのとは、正反対の考え方である。その道は、やがて国民皆保険へ続いていく。
その後、福祉の形は大きく二つに分かれた。一つは、ドイツから始まった保険の形で、保険料を払った人が受け取る。日本やフランスがこちらに近い。もう一つは、税の形で、国民であることを理由に受け取る。第二次世界大戦中にベヴァリッジ報告がまとめられたイギリスや、北欧の国々がこちらに近い。実際にはどの国も両方を組み合わせているが、どちらを土台にしたかで、いまの負担の仕方と受け取り方は違っている。19世紀の宰相が社会主義を抑えるために作った形を、21世紀の私たちがまだ使っている。