国民皆保険
概要
戦後の日本では、会社に勤める人は健康保険に入れたが、農家や自営業や日雇いの人は入れなかった。病気は、そのまま一家の破産を意味した。政府は市町村に国民健康保険を営むことを義務づけ、1961年4月、すべての人がどこかの保険に入る形が整った。同じころ国民年金も始まる。保険証が一枚あれば、どの医者にもかかれる。この仕組みは、高度成長の税収と、人口が若かったことに支えられていた。支える側が減り、支えられる側が増える時代が来ることは、まだ誰にも見えていなかった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
戦後まもない日本で、病気になったときに保険が使える人は、全体の三分の二ほどだった。会社や役所に勤める人は、1922年に作られた健康保険法などの被用者保険に入っていた。入っていなかったのは、農家、漁師、商店や町工場の自営業、日雇いの労働者、そして小さな事業所で働く人たちである。1950年代の半ば、その数は三千万人ほどと言われた。
保険の無い人にとって、病気はそのまま一家の破産を意味した。医者にかかれば田を売り、娘を働きに出す。あるいは、医者にかからない。農村では、死んでから初めて医者を呼ぶ、つまり死亡診断書を書いてもらうためだけに医者が来る、という話が各地で語られた。結核は国民の死因の上位にあり、乳児の死亡も多かった。

国民健康保険という仕組みは、戦前からあった。1938年の国民健康保険法である。農村の窮乏と、兵士となる若者の体力の低下が問題になり、厚生省が作られたのと同じ年にできた。ただし、保険の組合を作るかどうかは地域の任意で、戦時中に普及が進んだものの、敗戦の混乱で多くが立ち行かなくなった。貧しい町村ほど、保険を営む余力が無かった。
1950年代に入ると、医療を全員に、という声が強まった。1955年に保守合同で生まれた自由民主党は、国民皆保険を掲げた。1958年、国民健康保険法は全面的に改められ、市町村に国民健康保険を営むことが義務づけられた。猶予の期間を置いて、1961年4月1日、全国すべての市町村で実施がそろった。被用者保険に入っていない人は、住む市町村の国民健康保険に入る。こうして、すべての人がどこかの保険に入る形が整った。同じ1961年4月、国民年金の保険料の徴収も始まり、「国民皆保険・皆年金」と呼ばれた。

できたことは三つある。誰でもどこかの保険に入っていること。保険証を出せば、紹介状なしに、どの病院や診療所にもかかれること。そして窓口で払うのは、かかった費用の一部だけであること。ただし、始まったころの国民健康保険は費用の半分を保険が持つ「五割給付」で、自己負担は重かった。給付は1960年代に七割へ引き上げられていく。
その後の数字ははっきりしている。乳児の死亡率は下がり続け、平均寿命は伸びた。1960年に男性65歳、女性70歳ほどだった平均寿命は、1980年代には世界でも最も長い部類になった。もちろん、それは保険だけの成果ではない。栄養の改善、上下水道、抗生物質、生活の豊かさが重なっている。それでも、病院に行けるかどうかが財布で決まらなくなったことは、その土台だった。

この仕組みは、何に支えられていたのか。まず、高度成長の税収である。国民健康保険には、国の補助が大きく入っていた。次に、若い人口である。1960年の日本で、65歳以上の人は人口の6パーセント足らず、十七、八人に一人ほどだった。そして、多くの人が一つの会社に長く勤め、会社の保険が働く世代の医療費を支えたことである。
1973年、政府は「福祉元年」を唱え、70歳以上の老人の医療費の自己負担を無くした。同じ年の秋、第一次石油危機が来る。成長を前提にした約束が、成長の終わりと同時に始まったことになる。老人の医療費は膨らみ、1983年の老人保健法で、わずかながら自己負担が戻された。その後も、自己負担の割合は少しずつ引き上げられてきた。
いま、65歳以上の人は人口のおよそ三割、三人に一人に近づいている。高齢者の介護を医療から切り分けて支える介護保険が2000年に加わったのも、この流れの中にある。国民健康保険には、退職した人や、非正規で働く人が多く入るようになり、加入者の所得は低く、年齢は高い。支える側が減り、支えられる側が増える時代が来ることは、1961年にはまだ誰にも見えていなかった。
恤救規則の明治から、およそ九十年。救済は身内が見るべきものという考えから、全員が保険に入るという考えへ、日本は移った。そして、いま、誰がどれだけ払うかを、もう一度決め直そうとしている。社会保険を最初に作ったビスマルクの社会保険のドイツも、税で医療をまかなう道を選んだベヴァリッジ報告のイギリスも、同じところで立ち止まっている。