できごと

恤救規則

Japan's first national relief regulation
AD1874年(明治7年)12月8日
重要度 3
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアAD1874年(明治7年)12月8日東京
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概要

明治政府は、全国に通じる最初の救貧の決まりを出した。前文は、救済は本来「人民相互ノ情誼」、つまり身内と近所の情けで行うものだと述べる。国が出るのは、その情けが届かない者だけである。対象は、身寄りがなく働けない七十歳以上の老人、重い病人、障害のある人、十三歳以下の孤児に絞られた。渡されるのは米代にあたるわずかな現金で、頼る先があると見なされれば外された。救済は権利ではなく、例外だった。この決まりは、1932年に救護法ができるまで、五十八年ものあいだ使われ続けた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

1874年(明治7年)12月8日、明治政府は太政官の達として恤救規則を出した。全国に通じる、最初の救貧の決まりである。江戸時代にも、飢饉のときの御救い米や、藩や村ごとの施しはあった。しかしそれは領主と土地ごとに違い、廃藩置県のあとは誰が貧しい人を助けるのかが宙に浮いていた。恤救規則は、その空白を埋めるために出された短い決まりだった。

この決まりの性格は、前文がはっきり言っている。貧しい者を救うのは、本来「人民相互ノ情誼」によるべきものだ、という。情誼とは、身内や近所どうしの情けである。家族が面倒を見、それが無理なら親類や村が見る。国が出るのは、そうした情けがどうしても届かない「無告ノ窮民」、つまり訴える先の無い困窮者に限る、というのが出発点だった。

対象は狭く絞られた。極貧で身寄りの無い者のうち、重い障害で働けない者、七十歳以上で重い病や老衰で働けない者、病気で働けない者、そして十三歳以下の子である。働けないことと、頼る人がいないことの、両方が求められた。同居する家族がいても、その家族もまた老人か幼い子で働けない場合に限って、例外が認められた。

渡されるのは、米の代金にあたるわずかな現金だった。障害や老衰で働けない者には年に米一石八斗ぶん、十三歳以下の子には年に七斗ぶんを、その土地の米価で換算して支給した。病人には一日あたりの米の量で計算した。一石八斗は、一日に五合ほどの勘定になる。暮らしを立てるには足りず、飢え死にを防ぐぎりぎりの線である。しかも、頼る先があると見なされれば、それだけで外された。

なぜ、ここまで狭いのか。理由の一つは金である。発足まもない明治政府には財源が乏しく、同じころ徴兵令で軍を作り、地租改正で税の仕組みを整え、工場を建てようとしていた。救貧に回す余裕は小さかった。もう一つは考え方である。貧しいのは怠けたからだ、助ければ働かなくなる、という見方が、為政者の側に根強かった。そして家と村が面倒を見るのが当たり前だ、という前提があった。

だが、その家と村は、同じころから形を変え始めていた。若者は徴兵で兵に取られ、子は学制の公布で学校へ通うようになる。人々は都市や工場や炭鉱へ出ていった。面倒を見るはずの手が、家から少しずつ減っていった。都市には、親類の網からこぼれた貧しい人々が集まり、明治の中ごろには東京の貧民街の暮らしを伝えるルポルタージュが読まれるようになる。

それでも、恤救規則はほとんど変わらなかった。帝国議会では明治20年代から、救貧の法を作り直そうとする案が何度か出されたが、怠け者を増やすという反対にあって通らなかった。日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て工業化が進み、米騒動が起きても、国の救貧はこの小さな決まりのままだった。救済を受けた人は、多い年でも全国で二万人ほどだったとされる。人口のごくわずかである。地方の役所が支給を渋ったことも、数の少なさに表れている。

恤救規則の代わりに救護法が作られたのは1929年で、財政難のため施行は1932年までずれ込んだ。対象は広がり、生活の扶助のほか医療や出産の扶助も入ったが、救護を受ける者は選挙権を失うなど、救済を恥とする考えはなお残った。恤救規則は、制定から救護法の施行まで、五十八年のあいだ使われ続けたことになる。救済を国民の権利としてはっきり書いたのは、戦後の生活保護法(1950年の改正法)である。

いまの制度にも、この決まりの順番は残っている。まず家族が助け、それが無理なら国が出る。生活保護の申請で役所が親族に援助できないかを問い合わせる扶養照会は、その名残とされる。照会を恐れて申請をためらう人がいることは、繰り返し問題にされてきた。

同じ19世紀の終わり、ドイツは別の答えを出した。ビスマルクの社会保険である。情けではなく保険料で、例外ではなく働く者全員を対象にする。日本が「全員が入る」という考えに移るのは、恤救規則からおよそ九十年後の国民皆保険を待たなければならなかった。

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