できごと

火災保険と火災標

Fire insurance and the fire mark
AD1681年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国モロッコポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインEngland and IrelandScottalndヴェネツィア共和国NaplesルクセンブルクFinnmarkプロイセンAD1681年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1681年の版図を描いています(22勢力)。

概要

ロンドン大火で一万三千戸が焼けた。医師で不動産業者のニコラス・バーボンが、家屋を対象とする保険会社を作った。契約した家には金属の標を打ちつける。会社は自前の消防隊を雇い、標のある家だけを消した。標のない家の前で隊が引き返した、という話が語られる。競合が現場で争い、効率が悪い。やがて隊は統合され、1866年に公の首都消防隊が発足して、消防を引き受けた。私的な備えから、公共の役務への移行である。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

1666年9月2日の未明、ロンドンのプディング・レーンのパン屋から火が出た。火は東風にあおられて4日間燃え広がり、市壁の内側の大半を焼き尽くした(ロンドン大火)。焼けた家はおよそ1万3200戸、教区の教会は87、セント・ポール大聖堂も焼け落ちた。家を失った人は7万人ほどにのぼったとされる。記録に残る死者はわずか数人だが、貧しい人々の死は数えられなかったと考えられ、実際ははるかに多かったはずである。

家を失った人々は、何の償いも受けられなかった。火事に備える保険が無かったからである。海の保険はすでにあった。14世紀のイタリアの商人たちが始めたもので、ロンドンでも商人たちが船と積荷の危険を引き受け合っていた(ロイズと海上保険)。船が沈むかどうかは、経験から確率として見積もりやすい。だが、家が火事で焼けることを、同じように商売として引き受ける者はまだいなかった。

Nicholas Barbon
Nicholas BarbonWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その商売を始めたのが、ニコラス・バーボン(1640年ごろ〜1698年)である。父は清教徒の説教師プレイズゴッド・ベアボーンで、ピューリタン革命の時代のベアボーンズ議会にその名を残している。息子は、もしイエス・キリストが汝のために死ななかったならば汝は永遠に呪われていたであろう、という長い句を洗礼名に付けられたと伝えられるが、本人はニコラス・バーボンを名乗った。オランダで医学を学んで医学博士となったが、医者の道には進まなかった。

大火のあと、バーボンは焼け跡の再建に乗り出した。焼けた土地を買い集め、まとめて家を建てて売る。投機的な都市開発の最初期の担い手の一人とされる。そのやり方は強引で、評判はよくなかった。他人の土地に無断で建てたり、反対する住民を雇った人足で押しのけたりしたという話も残っている。一方で、経済についての文章も書き、貿易や貨幣についての先駆的な考えを示した人物でもあった。

家を建てて売る者にとって、火事は最大の危険である。バーボンは1667年ごろから、個人で家の火災の保険を引き受け始めたとされる。1680年には仲間と「火災事務所」を作り、翌年にはこれを会社の形に改めた。家の火災を引き受ける会社としては、世界で最初のものとされる。数多くの家から少しずつ保険料を集め、焼けた家に償いを払う。大火の記憶が生々しいロンドンで、この商売は当たった。続いて、ほかの火災保険の会社も次々に生まれた。

保険をかけた家には、会社の紋章を打ち出した金属の板を打ちつけた。火災標(ファイア・マーク)と呼ばれる。鉛や銅の板に、太陽や不死鳥、握り合う手といった会社のしるしと、証書の番号が刻まれていた。いまも博物館に数多く残り、ロンドンなどの古い建物の壁に、そのまま残っているものもある。

保険会社は、自分たちで消防隊を雇った。理由は単純である。保険をかけた家が燃えなければ、償いを払わずに済む。消防の働きと会社の利益が、ぴたりと重なっていた。隊員の多くはテムズ川の船頭だった。体が強く、水の扱いに慣れていた。そして会社の制服を着ていれば、海軍の強制的な徴募を免れることができた。会社ごとに制服の色が違い、火事場ではどの会社の隊かがすぐに分かった。

この仕組みには、困った面もあった。消防隊は火災標のある家、つまり自分の会社が保険を引き受けた家を守るために来る。標の無い家の前で隊が引き返した、という話が繰り返し語られてきた。ただし、この話はしばしば大げさに伝えられているという指摘もある。実際には、火が隣へ移るのを防ぐために、標の無い家の火も消すことが多かった。その場合は、あとで謝礼を求めた。また、一つの火事場に複数の会社の隊が駆けつけ、誰が消すかで争うこともあった。水の取り口を奪い合い、隊員どうしが殴り合った記録もある。同じような道具を各社がそれぞれ抱えるのも無駄だった。

1833年、ロンドンの火災保険会社10社が、それぞれの消防隊を一つにまとめた。初代の長に迎えられたのが、ジェイムズ・ブレイドウッドである。彼はスコットランドのエディンバラで、1824年に市の常設の消防隊を作った人物で、消防の方法を体系的に整えた。隊員を訓練し、道具の規格をそろえ、外から水をかけるだけでなく、建物の中に入って火元を叩くという戦い方を教えた。1861年、テムズ川の南岸の倉庫街で大火が起き、ブレイドウッドは消火の指揮をとるさなか、崩れた壁の下敷きになって命を落とした。

この大火で保険会社は大きな損害を受け、消防を自分たちだけで担うことに限界を感じた。保険をかけていない家が燃えても、その火は保険をかけた家に移る。消防の利益は契約者だけのものではなく、町に住む全員のものだ、と保険会社は訴えた。1866年、ロンドンには公の首都消防隊が発足し、消防は公の仕事になった。私的な備えから、公共の役務への移り変わりである。江戸で町火消が町人の手で組織されたのと(江戸の町火消)、ちょうど逆向きの道筋をたどったとも言える。

アメリカでも、似た道をたどった。19世紀のニューヨークやフィラデルフィアでは、志願者の消防組が町ごとに生まれ、火事場で組どうしが乱闘することもしばしばだった。消防組は地域の人々を束ねる力を持ち、やがて政治の票を集める組織にもなった。ニューヨークの政治を牛耳ったボス・ツイードも、消防組から身を起こした一人である。1865年、ニューヨークは給料を払う公の消防局に切り替えた。

火災保険は、いまでは世界中にある。保険会社はいまも、防火にお金を出し続けている。防火の設備を整えた建物の保険料を安くし、建物の基準づくりに加わり、製品の安全を確かめる試験の機関を支えてきた。アメリカで電気製品の安全を試験する機関も、19世紀の末に保険業者の研究所として始まった。利害が一致しているかぎり、私的な会社が公共の安全にお金を出す。それが、大火の焼け跡から生まれたこの仕組みの、最初からの原理である。人の命や暮らしを保険で守る考えは、のちに生命保険(生命保険の始まり)や社会保険へと広がっていく。

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