できごと

偽造との競争

The race against forgery
AD1818年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマークスウェーデン=ノルウェーオーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1818年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1818年の版図を描いています(22勢力)。

概要

ナポレオン戦争中、イングランド銀行が兌換を停止し、少額の紙幣を大量に出した。それまで紙幣に馴染みの無かった人々が使い、そして偽札が氾濫する。偽造は死罪だった。1797年から1829年に三百人以上が絞首刑になり、その多くが、偽と知らずに受け取った貧しい者である。1818年、銀行は偽造されにくい紙幣の公募を行った。透かし、彫刻、特殊なインク、そして機械彫り。技術の競争が始まり、そこから紙幣印刷という産業が生まれた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

1797年2月、フランス軍がウェールズのフィッシュガードに上陸したという知らせが広まると、人々は銀行券を金貨に換えようとロンドンのイングランド銀行の設立に押し寄せた。金が底をつきかけ、政府は銀行券と金の交換を止めさせた。銀行制限令と呼ばれるこの措置は、一時のこととされたが、結局ナポレオン戦争が終わった後の1821年まで、二十四年あまり続いた(イギリスの金本位制)。

金貨が出回らなくなった穴を埋めるため、イングランド銀行は1797年から一ポンドと二ポンドの少額の銀行券を発行した。それまでの最低の額面は五ポンドで、労働者の何週間分もの賃金にあたり、庶民はまず手にすることがなかった。少額の紙幣が、初めて人々の日々の暮らしに流れ込んだのである。

そして、偽札があふれた。当時の銀行券は白い紙に黒い文字と簡単な飾りを刷り、手書きの署名を入れただけの素朴なもので、透かしこそあったが、まねるのは難しくなかった。しかも受け取る側の多くは、それまで紙幣を見たこともなかった人々で、本物と偽物の見分けがつかない。銀行に持ち込まれて偽物と判定された紙幣の数は、制限令の始まったころの年に千数百枚だったのが、1810年代の後半には年に三万枚を超えたとされる。

偽造は死罪だった。偽札を作った者だけでなく、偽物と知りながら持っていたり使ったりした者も罪に問われた。問題はこちらだった。1797年から1829年までのあいだに、紙幣の偽造や行使にかかわる罪で絞首刑になった人は三百人を超えるといわれ、さらに多くの人がオーストラリアなどへの流刑に処された。検察は、偽物と知って持っていたというより軽い罪を認めれば死刑を免れて流刑で済む、という取引をしばしば持ちかけ、多くの被告がそれに応じた。そして裁かれた人々の多くは貧しかった。釣り銭や賃金として受け取った紙幣を、偽物と知らずに使った者も少なくなかった。知らなかったことを証明するのは難しく、その重荷は事実上、被告の側に負わされていた。

この状況に、人々は憤った。1819年、風刺画家ジョージ・クルックシャンクは、銀行券そっくりの形をした風刺の版画を発表した。透かしの代わりに絞首台が描かれ、縄で吊るされた人々が並び、署名の代わりに死神がいる。この版画は飛ぶように売れた。クルックシャンクは後に、この一枚が世論を動かし、偽札の行使で絞首刑になる人がいなくなったと語っている。その影響がどこまであったかは議論があるが、強い印象を残したことは確かである。1830年代、偽造に対する死刑は廃止された。

銀行の側も、手をこまねいていたわけではない。1818年、偽造しにくい紙幣をどう作るかを検討するために委員会が設けられ、広く案が募られた。寄せられた提案は数十にのぼった。決定的な一案はなく、すぐに紙幣が作り替えられたわけではなかったが、ここから偽造を防ぐ技術が少しずつ積み上がっていった。

その技術は、いくつもの層からなる。紙を漉く段階で厚みを変え、光にかざすと絵柄が浮かぶ透かし。版に溝を彫ってインクを盛り上げて刷り、指でなでると凹凸が分かる凹版の印刷は、ふつうの印刷や複写では再現しにくい。歯車を組み合わせた機械で、手では描けないほど細かく規則正しい曲線の模様を彫る技法もある。アメリカの発明家ジェイコブ・パーキンスは、柔らかくした鋼の板に細かな彫刻をして版を硬くし、同じ版を何度も写し取る技法を携えて、1819年にイギリスへ渡ってきた。特別なインクや特別な紙、一枚ずつ違う番号も、偽造を難しくする手段になった。

こうして、紙幣を刷ることが一つの産業になった。パーキンスが関わった印刷会社は、1840年、世界最初の切手ペニー・ブラックと郵便改革を刷ることになる。ほかにも、十九世紀のイギリスにはウォーターロー・アンド・サンズやトマス・デ・ラ・ルーといった印刷会社が育ち、自国で紙幣を刷る設備を持たない国々のために、紙幣や切手、旅券を刷るようになった。そうした会社のいくつかは、いまも世界の多くの国の紙幣を刷っている。

偽造との競争は、思わぬ形をとることもあった。1925年、ポルトガルの詐欺師アルヴェス・レイスは、ポルトガル銀行の偽の委任状をロンドンの印刷会社ウォーターローに持ち込み、本物の版で本物とまったく同じ紙幣を刷らせた。刷られた額は、ポルトガルの経済の規模の一パーセントほどに達したとされる。レイスはその金で銀行を作り、ポルトガル銀行の株を買い集めようとしていた。中央銀行そのものを握ってしまえば発覚しないという計算だった。だが同じ番号の紙幣が見つかって計画は露見し、ポルトガル銀行は印刷会社を訴えて勝った。

競争はいまも続いている。見る角度で色や絵柄が変わる箔やインク、肉眼では読めないほど小さな文字、光にかざすと見える仕掛け。紙幣の上には小さな五つの円が決まった配置で散りばめられていることがあり、複写機や画像を扱うソフトウェアがそれを見つけて、複製を拒むようになっている。その仕組みの細部は、公にはされていない。

そして紙幣そのものが、電子の決済によって少しずつ姿を消しつつある。偽造の舞台もまた、紙の上から、不正な送金や他人へのなりすましへと移ってきた。二百年前に貧しい人々を絞首台へ送った問題は、形を変えて、いまも続いている。

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