ジョン・カボット
概要
ジェノヴァに生まれ、ヴェネツィアの市民になり、借金で逃げて、スペインで断られ、ブリストルへ。マシュー号。1497年、北米。ヘンリー7世が10ポンド。翌年、5隻。消えた。息子セバスチャンは父の功績を自分のものとして語った。
関わったできごと(1)
カボットのニューファンドランド到達AD1497年6月24日 · 航海本文
イタリア語での名はジョヴァンニ・カボート。1450年頃、ジェノヴァに生まれたとみられるが、ガエータなど別の土地とする説もある。少年のころに一家でヴェネツィアに移り、1476年にヴェネツィアの市民権を得た。市民権には15年の居住が条件だったので、1461年頃には住んでいたことになる。商人として東地中海で香料などを扱い、のちにイングランドで、自分はかつてメッカまで行き、香料を運ぶ隊商を見た、と語っている。妻マッティアとのあいだに、ルドヴィコ、セバスティアーノ、サンクトの三人の息子がいた。

1488年頃、借金を抱えてヴェネツィアを逃れた。その後スペインのバレンシアで港の改修計画を、セビリアで橋の計画を売り込んだが、どちらも実を結ばなかった。そのころ、コロンブスが西へ向かって陸地に着いたという報せがスペインを駆けめぐっていた(コロンブスの到達)。西へ行けばアジアに着く。それならば、地球が丸い以上、北の方を通った方が距離は短いはずだ。カボットはそう考え、その計画を支えてくれる国を探した。
1495年頃、イングランドの西の港町ブリストルに現れた。ブリストルの商人たちは、アイスランドとの交易やタラの漁場を求めて、すでに大西洋の西へ船を出していた。1496年3月、国王ヘンリー7世はカボットと息子たちに、まだキリスト教徒に知られていない土地を見つけ、王の名で領有する特許状を与えた。費用は自分たち持ちで、利益の5分の1を王に納める条件だった。その年の最初の航海は、食糧の不足と悪天候で引き返した。

1497年5月、カボットは小さな船マシュー号で、20人ほどの乗組員とともにブリストルを出た。6月24日、西の陸地を見つけて上陸した(カボットのニューファンドランド到達)。その場所がニューファンドランド島か、ケープ・ブレトン島か、ラブラドールかは、いまも決着がついていない。上陸は一度だけで、王の旗を立て、人の住んだ跡、つまり火をたいた跡や網を編む道具、切られた木を見つけたが、人には会わなかった。危険を恐れて、すぐ船に戻ったという。海岸沿いをしばらく航海し、8月の初めにブリストルに戻った。
ロンドンにいたイタリアの外交官の手紙によれば、カボットは、その海には魚があふれていて、石を結んだ籠を下ろすだけでタラが獲れると語った。アジアの香料の国への入口を見つけたと思い込んでいたカボットにとって、魚は付け足しの話にすぎなかった。だが、のちにイングランドとフランスの漁師たちをこの海に引き寄せ、北アメリカへの関わりを作っていったのは、まさにその魚だった(塩ダラ)。

ヘンリー7世は「新しい島を見つけた者」に10ポンドを与え、年20ポンドの年金を約束した。カボットは絹の服を着て町を歩き、「大提督」と呼ばれてもてはやされた。1498年5月、今度は5隻の船団で再び西へ出た。1隻は嵐で傷ついてアイルランドに引き返したが、残りの船とカボット自身の消息はそこで途絶えた。海で沈んだと考えるのが普通だが、1499年まで彼の年金が支払われていた記録があることから、帰還した可能性を論じる研究者もいる。確かなことは分かっていない。1500年頃にスペインのファン・デ・ラ・コサが描いた世界図には、北アメリカとみられる海岸に、イングランドの旗が並び、「イギリス人が見つけた海」と書き込まれている。
息子のセバスチャン・カボットは、のちに北西への航路を求めて航海し、さらにスペインに仕えて南アメリカのラプラタ川を探検した。晩年にイングランドへ戻った彼は、父の航海の功績をしばしば自分のものとして語ったため、歴史家たちは長いあいだ、どちらが何をしたのか混乱させられた。アジアへの北の近道、北西航路が実際に船で通り抜けられるのは、それから400年以上のちの20世紀初めである(北西航路の初めての通過)。

イングランドにとって、カボットの航海は、のちに北アメリカの領有を主張するときの根拠になった。到達から400年の1897年、ブリストルにはカボット・タワーが建てられ、500年の1997年には復元されたマシュー号が同じ航路をたどった。カナダのニューファンドランドでは、6月24日を「発見の日」として長く祝ってきた。旗を立て、すぐに去ったイタリア生まれの商人の一度の上陸が、この島と大陸の歴史の起点として語られている。