人物

アベル・タスマン

Abel Tasman
AD1603年 – AD1659年10月10日(享年56・推定)
ネーデルラント連邦共和国重要度 3

概要

オランダ東インド会社の船長。1642年にタスマニアとニュージーランドとトンガとフィジーを見て、オーストラリアを見なかった。会社は「臆病で、利益を持ち帰らなかった」と評した。バタヴィアで、酔って部下を吊るそうとして降格された。

所属

ネーデルラント連邦共和国

関わったできごと(1)

タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達AD1642年11月24日 · 船長

本文

アベル・ヤンスゾーン・タスマンは、1603年ごろ、ネーデルラントの北東部フローニンゲン州の村ルトイェハストに生まれた。若いころのことはほとんど分からないが、アムステルダムで船乗りになり、1633年ごろ、オランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)に雇われて、アジアの拠点バタヴィア(オランダ東インド会社のバタヴィア、いまのジャカルタ)に渡った。会社は、香辛料の貿易を独占するために、アジアの海に船と要塞と商館の網を広げていた。タスマンは航海士から始め、1634年には早くも船長となって、香料諸島のモルッカの海で、密貿易の取り締まりや交易に当たった。

アベル・タスマン
アベル・タスマンWikimedia Commons Jacob Gerritsz. Cuyp · Public domain

1639年、タスマンは、上官マタイス・クワストとともに、日本の東の太平洋に金と銀の島があるという噂を確かめる航海に出た。スペインの船乗りたちの間で語られていた伝説の島で、もちろん見つからなかった。それでも、この航海でタスマンは日本の近海や台湾の海を知り、その後も日本の平戸や、カンボジアへの航海を重ねて、会社の中で腕の立つ船長として認められていった。

当時のヨーロッパの地図には、南半球の大部分を占める巨大な「南の大陸」が描かれていた。地球の釣り合いをとるには、北の大陸と同じくらいの陸地が南にもあるはずだと考えられていたのである。オランダの船は、すでにオーストラリアの西岸や北岸の一部を見つけ、そこを「新しいオランダ」と呼んでいたが、その大陸がどこまで広がっているのかは分からなかった。会社の総督アントニー・ファン・ディーメンは、この未知の南の土地を探り、新しい交易の相手と、チリへ向かう航路を見つけたいと考えた。

1628年の世界地図。新たに発見されたNew Holland(新オランダ、オーストラリアの西海岸)はメガラニカの一部と思われていた。
1628年の世界地図。新たに発見されたNew Holland(新オランダ、オーストラリアの西海岸)はメガラニカの一部と思われていた。Wikimedia Commons Public domain

1642年8月、タスマンは、2隻の船ヘームスケルク号とゼーハーン号を率いてバタヴィアを出た。一行はまずインド洋のモーリシャスへ向かい、そこから南東へ進んだ。11月24日、彼らは山がちな陸地を見つけ、総督の名をとってファン・ディーメンの地と名づけた。いまのタスマニアである。上陸した者は、木の幹に刻まれた刻み目や煙を見て人の気配を感じたが、住民には会わなかった。

さらに東へ進んだ一行は、12月13日、高い山々の連なる大きな陸地を見つけた。いまのニュージーランドの南島である。12月19日、北端の湾に錨を下ろすと、マオリの人々のカヌーが近づいてきた(アオテアロアへの到達)。法螺貝のような音が交わされ、翌日、船と船の間を行き来していた小舟がカヌーに襲われ、4人の船員が殺された。タスマンはこの湾を「殺人者の湾」と名づけ、上陸しないまま立ち去った。いまのゴールデン湾である。タスマンは、この陸地が南アメリカの南端近くのスターテン島とつながっていると考え、「スターテン・ラント」と呼んだ。

貿易風
貿易風Wikimedia Commons KVDP · Public domain

一行は北へ進み、トンガとフィジーの島々に立ち寄って、トンガでは住民と友好的に交易した。そしてニューギニアの北を回って、1643年6月、10か月ぶりにバタヴィアに帰り着いた(タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達)。彼らは、オーストラリアの大陸を南から大きく回り込み、北を通って戻ってきたのに、一度もその大陸を目にしなかった。それでも、この航海によって、オーストラリアが南極まで続く大陸ではなく、周りを海に囲まれた陸地であることが分かったのである。

だが会社の評価は冷ややかだった。タスマンは、交易に役立つ土地も、金も銀も、香辛料も見つけてこなかった。見つけた陸地も、上陸して詳しく調べたわけではなかった。会社の幹部たちは、彼は十分に勇敢ではなく、もっと念入りに調べるべきだったと不満を述べた。1644年、タスマンは再び南へ送られ、ニューギニアからオーストラリアの北岸を西へたどって地図を描いたが、ここでもニューギニアとオーストラリアの間の海峡は見落とされた。

赤:1642-43年の航路(反時計回り)青:1644年の航路(時計回り)
赤:1642-43年の航路(反時計回り)青:1644年の航路(時計回り)Wikimedia Commons Public domain

その後、彼はバタヴィアの評議会の一員となり、シャムへの使節や、スペインのマニラへの遠征の指揮も任された。だが1649年、酒に酔った彼は、部下の船員2人を裁判なしに吊るそうとし、一人は実際に吊るされかけた。タスマンは職を停止され、罰金を科され、償いを命じられた。のちに復職したが、やがて会社の仕事を離れ、バタヴィアの裕福な商人、地主として暮らした。1659年に亡くなり、遺言で、故郷の村の貧しい人々のためにいくらかの金を残した。

タスマンの名が世界の地図に広がったのは、死後ずっとたってからだった。ニュージーランドという名は、彼の航海のあと、オランダの地図製作者が、ネーデルラントのゼーラント州にちなんで付けたものである。スターテン島が実は小さな島だったと分かり、彼の付けた名は使われなくなった。1世紀あまりのち、イギリスのクック(クックの太平洋航海)がニュージーランドを一周して地図を描き、オーストラリアの東岸を探った。ファン・ディーメンの地は、イギリスの流刑植民地となってその名が忌まれるようになり、1856年、タスマンの名をとってタスマニアと改められた。いまは、オーストラリアとニュージーランドの間の海も、ニュージーランドの国立公園や氷河も、彼の名で呼ばれている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1603年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →