セウタ攻略
概要
ポルトガルがジブラルタルの向かいのイスラームの港を一日で取った。ヨーロッパがアフリカに足場を持った最初。21歳のエンリケ王子が戦い、以後アフリカの海岸を南へ船を送り続ける。大航海時代の最初の日、と数えることが多い。
場所
35.89°N -5.32°E · スペイン(アフリカ側)
関わった人(1)
エンリケ航海王子AD1394年3月4日–AD1460年11月13日 · 王子本文
14世紀の末、ポルトガルは隣の大国カスティーリャに飲みこまれる瀬戸際にあった。1385年、アヴィス騎士団の長だったジョアンは、アルジュバロータの戦いでカスティーリャ軍を破り、王ジョアン1世として新しい王朝を開いた。イングランドと同盟を結び、王妃にはイングランドのランカスター家のフィリッパを迎えた。
カスティーリャとの和平がようやく固まると、王のまわりには、戦う相手を失った貴族と騎士があふれた。王と王妃のあいだには、ドゥアルテ、ペドロ、エンリケ航海王子(エンリケ)らの王子たちがいた。のちに書かれた年代記によれば、成人した王子たちは、騎士に叙される晴れの舞台として、馬上槍試合ではなく本物の戦いを望んだという。異教徒との戦いで手柄を立て、騎士の名誉を得る。その相手として選ばれたのが、海峡の向こうのセウタだった。

セウタは、ジブラルタル海峡をはさんでイベリア半島と向き合う、アフリカ北端の港町である。モロッコのマリーン朝の支配下にあり、地中海と大西洋をつなぐ海峡を見張る位置にあった。サハラ砂漠を越えて運ばれてくる西アフリカの金や、象牙、穀物が出入りする交易の町でもあった。海峡を荒らすイスラームの海賊の根城を断つ、という狙いもあった。
準備は秘密のうちに進められた。行き先を隠すため、さまざまな噂が流されたと伝えられる。出発の直前、王妃フィリッパは疫病に倒れた。死の床で三人の王子に一振りずつ剣を授け、祝福を与えたという。1415年7月、リスボンとポルトに集まった200隻あまりの船が、王と王子たちを乗せて出航した。兵の数ははっきりしないが、数万人に及んだとする記録もある。

8月21日の朝、ポルトガル軍は上陸した。守備側は、艦隊の動きを見て一度は援軍を集めていたが、嵐でポルトガル軍が遠ざかったのを見て兵を帰してしまっていた。不意を突かれた町は、その日のうちに落ちた。イスラーム教徒の住民は逃げ、町は略奪された。大モスクは清められて教会に変えられ、そこで王子たちは騎士に叙された。エンリケはこの戦いで目覚ましい働きをしたと、年代記は伝えている。
だが、手に入れたセウタは、思ったような宝の町ではなかった。イスラーム教徒の商人は去り、サハラからの隊商は別の港へ向かうようになった。周りを敵に囲まれた町を守るために、ポルトガルは兵と食料を送り続けなければならなかった。

1437年、王子エンリケと弟フェルナンドはタンジールを攻めて大敗した。軍を逃がす代わりにセウタを返すと約束し、その保証としてフェルナンドが人質に残された。しかしポルトガルの宮廷は、多くの血を流して得たセウタを返すことを拒んだ。フェルナンドは、モロッコのフェズの牢で、1443年に死んだ。のちに彼は殉教者として敬われ、「聖王子」と呼ばれる。
それでも、セウタの攻略は、ポルトガルの目を海の向こうへ向けさせた。セウタで聞いた金の産地の話は、エンリケの心を、海路でアフリカの奥へ回りこむ夢へと向けたとされる。エンリケはその後、大西洋に面したサグレス岬の近くに拠点を置き、船を毎年のようにアフリカの海岸の南へ送り出した。1420年ごろにはマデイラ諸島への植民が始まり(マデイラの植民)、1434年には、それまで船乗りが越えられないと恐れていたボジャドール岬が越えられた。1444年ごろには船はセネガル川の近くまで達し、同じころ、連れ帰られたアフリカの人びとがポルトガルの港で売られはじめた。

エンリケが1460年に死んだあとも、南への航海は続いた。1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回り(喜望峰の回航)、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに着いた。セウタの攻略は、ヨーロッパがアフリカに初めて足場を得た日であり、大航海時代の始まりの日として数えられることが多い(物語「大航海時代」)。
セウタはその後、ポルトガルとスペインの王が同じだった時代を経て、1668年の条約でスペイン領と定まった。いまもスペインの町として、アフリカの側にある。モロッコはその返還を求め続けている。