できごと

カルティエのセントローレンス川

Cartier explores the St. Lawrence
AD1535年
重要度 3
スペイン帝国T'atsaot'ineアサバスカ諸族クリーヌエバ・エスパーニャ副王領ミシシッピ文化亜寒帯林の狩猟採集民ObiwaNaskapi InnuShoshoniAssiniboinApacheMontagnais InnuUteIllinnois𐓏𐒰𐓓𐒰𐓓𐒷 𐒼𐓂𐓊𐒻 𐓆𐒻𐒿𐒷 𐓀𐒰^𐓓𐒰^(Osage)コマンチアラパホークロウMescaleroShawneeSanteeKiowaTetonMi'kma'kiBlackfootErieCatawbaベオスックカドーCaohuiltecsイロコイ連邦Southern PaiutePawneeWichitaYankontaiMuskogeePotawatomiChicaksawYanktonAbnakiChiricahuaCuba (Spain)GuachichilesAaniiihNavahoIowaQuapawChoctawZacatecsTonkawaマヤの人びとシャイアンFlatheadSusquehannaCherokeeCochimàCaloosahatchee cultureHitchitiDelawareLipanTepehuaneGuachimisCahitasTimucuaMissouriTuteloMiamiTamalipuecaAD1535年ケベック
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1535年の版図を描いています(69勢力)。

概要

フランスの船乗りが川を遡り、イロコイ語の「村」を意味する言葉から「カナダ」と呼んだ。冬に壊血病で25人を失い、先住民が松の煎じ汁を教えた。金を持ち帰れず、フランスは70年、そこを忘れた。

場所

ケベック
46.81°N -71.21°E · カナダ

関わった人(1)

ジャック・カルティエAD1491年–AD1557年9月1日 · 船長

本文

16世紀のはじめ、スペインとポルトガルは新しい世界の富を分け合い、フランスは出遅れていた。フランス王フランソワ1世は、北の海から回ってアジアへ抜ける道と、スペインが手にしたような金銀を探させようとした。白羽の矢が立ったのが、ブルターニュの港町サン・マロの船乗りジャック・カルティエである。その北の海には、30年以上前にイングランドの旗のもとでジョン・カボットが着いており(カボットのニューファンドランド到達)、ヨーロッパの漁師たちが鱈を捕りに通っていた。

1534年4月20日、カルティエは2隻の船と61人を率いてサン・マロを出た。20日ほどでニューファンドランドに着き、その奥の広い湾を探った。7月24日、ガスペ半島に高さ10メートル近い十字架を立て、「フランス王万歳」と刻んだ。土地を王のものとする印だった。そこに漁に来ていた村の長ドンナコナは、身ぶりで抗議したと、カルティエ自身の記録にある。カルティエは長の息子ドマガヤとタイニョアニの二人を船に乗せ、フランスへ連れ帰った。通訳に育てるためだった。

セントローレンス川を描いた1541年頃のスペインの海図。「オルレアン島」の前に「ここで多くのフランス人が飢えで死んだ」との注記がある
セントローレンス川を描いた1541年頃のスペインの海図。「オルレアン島」の前に「ここで多くのフランス人が飢えで死んだ」との注記があるWikimedia Commons Anónimo, siglo XVI, España · Public domain

1535年5月、カルティエは3隻と110人ほどで再び海を渡った。案内に立ったのは、フランス語を覚えた二人の息子である。彼らは湾の奥から大きな川が内陸へ続いていることを教え、一行はその川をさかのぼった。この川はのちに、カルティエが聖ラウレンティウスの祝日に名をつけた入り江にちなんで、セントローレンス川と呼ばれる。9月、一行はドンナコナの村スタダコナ、いまのケベックの場所に着いた。息子たちは村や町のことを「カナタ」と呼んだ。この地の人々の言葉で村を意味するこの語を、カルティエは土地の名と受け取り、記録に「カナダ」と書いた。それが国の名前の起こりとされる。

ドンナコナは、カルティエが上流へ行くのを引き止めようとした。交易の窓口を自分の村にとどめておきたかったのだろうと考えられている。カルティエは聞かずに小舟で進み、10月2日、大きな町ホチェラガに着いた。50ほどの長屋が柵に囲まれ、周りにはトウモロコシの畑が広がっていた。町の裏の山に登ったカルティエは、それを「モン・ロワイヤル(王の山)」と名づけた。いまのモントリオールの名のもとである。山の上から見ると、川の先には大きな急流があり、船ではそれ以上進めないことが分かった。

カルティエの発見を示す『ドーファン地図』(1543年頃)。右上にニューファンドランド、左下にフロリダとバハマが描かれる
カルティエの発見を示す『ドーファン地図』(1543年頃)。右上にニューファンドランド、左下にフロリダとバハマが描かれるWikimedia Commons Public domain

一行はスタダコナに戻って冬を越した。川は凍り、雪は深く、やがて壊血病が広がった。歯ぐきが腫れて腐り、足がむくんで動けなくなる。110人のうち25人が死に、ほとんど全員が病んだ。そのとき、ドマガヤが、ある木の枝と葉を煮出して飲む方法を教えた。地元の言葉で「アネダ」と呼ばれた木で、ニオイヒバ(白杉)だったとする説が有力だが、ツガなど別の木とする説もある。煎じ汁を飲んだ者は数日で回復し、カルティエは、ヨーロッパの医者が束になってもかなわない効き目だったと書き残した。

1536年5月、カルティエはドンナコナとその息子たちを含む10人ほどを、なかば力ずくで船に乗せて帰国した。ドンナコナはフランス王の前で、北の内陸には金や宝石のある「サグネの王国」があると語り、王の関心をつないだ。しかし連れて行かれた人々は、一人の少女を除いて、数年のうちにフランスで亡くなったと伝えられる。

カルティエの船隊を記念した1908年のカナダ切手
カルティエの船隊を記念した1908年のカナダ切手Wikimedia Commons Canada Post Office · Public domain

1541年、カルティエは三度目の航海に出た。今度は入植が目的で、全体の指揮はフランス貴族のロベルヴァルが執った。カルティエはケベックの少し上流に砦を築いて冬を越したが、ドンナコナを連れ去られた人々との関係は冷えきっており、たびたび襲撃を受けた。翌1542年、カルティエは樽に詰めた「金」と「ダイヤモンド」を持って帰国した。調べてみると、黄鉄鉱と石英にすぎなかった。フランスには「カナダのダイヤモンドのように偽物」という言い回しが残った。遅れて着いたロベルヴァルの入植地も、寒さと病で1年あまりで捨てられた。

その後もフランスの漁師や毛皮の商人はこの海に通い続けたが、国としての入植は途絶えた。1608年にシャンプランがケベックに町を築いたとき、カルティエが会ったスタダコナやホチェラガの人々の村は、もう跡形も無くなっていた。この人々は、のちのイロコイ連邦と近い言葉を話していたが別の集団で、いまはセントローレンス・イロコイと呼ばれる。ヨーロッパから持ち込まれた病気のためか、周りの民族との戦争のためか、消えた理由は分かっていない。カルティエ自身は1557年、サン・マロで世を去った。彼が書き留めた「カナダ」という一語だけが、国の名として残った。

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