人物

バルボア

Vasco Núñez de Balboa
AD1475年頃 – AD1519年1月(享年44・推定)
スペイン帝国重要度 3

概要

エストレマドゥーラの貧乏貴族。イスパニョーラで借金し、樽に隠れてダリエンへ。入植地を作り、太平洋を見た。新しい総督ペドラリアスが来て、娘婿にし、それから反逆罪で斬った。首は広場に数日晒された。

所属

スペイン帝国

関わったできごと(1)

バルボアの太平洋到達AD1513年9月25日 · 探検者

本文

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、1475年ごろ、スペインの西部、エストレマドゥーラ地方の町ヘレス・デ・ロス・カバリェロスに生まれた。家は貴族の端に連なる家柄だったが、財産は乏しかった。エストレマドゥーラは乾いた貧しい土地で、のちにメキシコを征服するエルナン・コルテスや、ペルーを征服するフランシスコ・ピサロもこの地方の出である。土地を継げない貧しい貴族の息子たちにとって、コロンブスが開いた海の向こうの新しい世界は、名と富を手にする唯一の機会だった。

南の海(太平洋)の領有を宣言するバルボア(19世紀の銅版画)
南の海(太平洋)の領有を宣言するバルボア(19世紀の銅版画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1500年ごろ、バルボアは、南アメリカの北の海岸、いまのコロンビアからパナマにかけての沿岸を探る船団に加わって海を渡った。その後、カリブ海のイスパニョーラ島に住みつき、土地を手に入れて豚を飼い、農場を営んだが、うまくいかず、借金がかさんだ。債権者から逃れることのできない身になった彼は、1510年、大陸の植民地へ物資を運ぶ船に、こっそり乗り込んだ。積み荷の樽の中か、帆布の下に身を隠し、飼い犬のレオンシコを連れていたと伝えられる。沖に出てから見つかり、指揮官のエンシソは彼を無人島に置き去りにすると怒ったが、やがて許した。

船が向かった大陸の植民地は、先住民の攻撃と飢えで、ほとんど壊滅していた。生き残った者たちの中には、のちのペルーの征服者ピサロもいた。かつてこの沿岸を航海したことのあるバルボアは、湾の向こうのダリエンの地には、毒矢を使わない人々が住み、食べ物も豊かだと説いた。一行はそこへ移り、先住民の首長の軍を破って、1510年、サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンという町を築いた。アメリカ大陸の本土で、スペイン人が長く住み続けた最初の町である。

アメリカ大陸の古地図
アメリカ大陸の古地図Wikimedia Commons Public domain

バルボアは、たちまち植民地の指導者になった。人望の無いエンシソを退け、この地を治める正式の権利を王から得ていた別の総督が現れると、仲間たちとともに受け入れを拒み、粗末な船で海へ追い返した。その総督は二度と姿を見せなかった。バルボアは町の長に選ばれ、やがて王からも、植民地を臨時に預かる者として認められた。

彼は、先住民の首長たちとの付き合い方に長けていた。ある時は戦い、ある時は贈り物を交わして同盟を結び、首長の娘を妻のように迎えた。ある首長の息子は、スペイン人たちが金を量って取り分を争うのを見てあきれ、それほど金が欲しいなら、山の向こうに別の海があり、そのほとりには金のあふれる国がある、と教えたという。

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの肖像(作者不詳)
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの肖像(作者不詳)Wikimedia Commons Anonymous ( Spain ) Unknown author after a 18th-century engraving · Public domain

1513年9月、バルボアは、190人ほどのスペイン人と、荷を運び道を案内する数百人の先住民、そして犬たちを連れて、パナマの地峡を横切る旅に出た。密林と沼地を切り開き、山を越える道は険しく、途中では、抵抗した部族を打ち破り、犬をけしかけて人々を殺すことまでした。9月の下旬、一行の先頭に立って山の頂に登ったバルボアは、はるか南に広がる海を目にした(バルボアの太平洋到達)。数日後、彼は海岸にたどり着き、旗を手に膝まで海に入って、この海と、それに接するすべての土地を、カスティーリャの王のものと宣言した。ヨーロッパ人が、アメリカ大陸の西の海を、その岸から初めて見たのである。彼はこの海を「南の海」と呼んだ。のちにマゼランが、穏やかな海という意味で太平洋と名づける海である。

だが、バルボアが金と真珠を携えて意気揚々とダリエンに戻るより前に、スペインの宮廷では、追い出されたエンシソが王に訴え出ていた。王は新しい総督として、年老いた軍人ペドロ・アリアス・デ・アビラ、通称ペドラリアスを任じた。1514年の夏、ペドラリアスは、千人を超える入植者を乗せた大船団を率いてダリエンに着いた。だが、いきなり大勢が押し寄せた町では、食べ物が尽き、熱病が広がって、多くの人が命を落とした。ペドラリアスは、のちに「神の怒り」と呼ばれるほど、先住民にも部下にも苛酷な支配者として知られるようになる。

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの署名
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの署名Wikimedia Commons Vasco Nuñez de Balboa · Public domain

太平洋の発見の知らせを受けた王は、1515年、バルボアに南の海の沿岸を治める地位を与えた。ただし、ペドラリアスの下でという条件付きだった。二人の間の緊張は続いたが、和解のしるしとして、バルボアはスペインにいたペドラリアスの娘マリアと婚約した。顔を合わせたことのない相手との、代理の婚約だった。

バルボアは、南の海へ乗り出す準備を始めた。カリブ海の側で木を切り、船の部品を作らせると、それを先住民たちに担がせて、山を越えて太平洋の側へ運び、そこで組み立てた。重い荷を運ばされた人々の多くが命を落とした。こうして作った船で、彼は太平洋の沖の真珠の島々に渡り、さらに南の、黄金の国があるという方角へ向かう計画を進めていた。

ギヨーム・ド・リルによるアメリカ大陸の地図
ギヨーム・ド・リルによるアメリカ大陸の地図Wikimedia Commons Delisle, Guillaume (1675-1726). Auteur du texte · Public domain

1518年の終わり、ペドラリアスはバルボアに、話があるから来るように、と手紙を送った。呼び出しに応じて向かったバルボアを、途中で兵を率いて捕らえたのは、かつての仲間ピサロだった。バルボアは、ペドラリアスへの反逆を企てた罪に問われた。本人は最後まで否定し、王に忠実だったと訴えたが、裁判は形ばかりのものだった。1519年1月、バルボアは、仲間の4人とともに太平洋の側の町アクラで首をはねられた。44歳ほどだった。首は見せしめのために晒され、ペドラリアスは近くの小屋の隙間からその処刑を見ていたと伝えられる。

同じ1519年、ペドラリアスは太平洋の岸にパナマの町を築いた。数年後、ピサロはこの町から南へ船出し、やがてインカ帝国を滅ぼす(インカ帝国の滅亡)。バルボアが夢見た黄金の国を手にしたのは、彼を捕らえた男だった。いま、パナマの通貨はバルボアと呼ばれ、パナマ運河の太平洋の側の港にも彼の名がつけられている。

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