人物

フランシスコ・ピサロ

Francisco Pizarro
AD1478年頃 – AD1541年6月26日(享年63・推定)
スペイン重要度 4

概要

内戦で弱っていたインカを200人足らずで倒した。自身も仲間割れで殺される。

関わったできごと(2)

カハマルカの戦いAD1532年11月16日 · 指揮インカ帝国の滅亡AD1533年 · スペイン側 · 総指揮

本文

フランシスコ・ピサロは1478年頃(1471年頃とする説もある)、スペイン西部エストレマドゥーラ地方の町トルヒーリョに生まれた。父は歩兵隊の隊長を務めた郷士で、母は身分の低い女性だった。正式な結婚から生まれた子ではなく、父の家で育てられることもなかった。生涯、読み書きができなかったとされ、署名も他人に書かせた。少年時代に豚の番をしていたという話は広く知られているが、確かな記録があるわけではない。

フランシスコ・ピサロ
フランシスコ・ピサロWikimedia Commons Amable-Paul Coutan · Public domain

1502年、ピサロは新しい総督の船団に加わってイスパニョーラ島へ渡った。そこからカリブ海と中米の征服に加わり、1513年にはバルボアの一行に入って、ヨーロッパ人として初めて太平洋を見た者の一人になった(バルボアの太平洋到達)。数年後、そのバルボアが反逆の罪に問われたとき、彼を捕らえたのはピサロである。パナマの町に落ち着いたピサロは、土地と先住民の労働を与えられ、50歳近くまで植民地の中堅の有力者にとどまった。

転機は、南の海岸に黄金の豊かな国があるという噂だった。1520年代、ピサロは軍人のディエゴ・デ・アルマグロ、司祭のエルナンド・デ・ルケと組んで、南への探検に出た。1回目は飢えと先住民の抵抗で引き返した。2回目は、総督から帰還を命じられて仲間の多くが去り、太平洋上の小島に取り残された。このときピサロが砂に剣で線を引き、富を求める者はこちらへ来いと言うと、13人だけが線を越えたという話が伝わる。やがて一行はペルー北部の町トゥンベスにたどり着き、石造りの建物と金銀の器を目にした。噂は本当だった。

アメリカ大陸の古地図
アメリカ大陸の古地図Wikimedia Commons Public domain

ピサロは1528年にスペインへ戻り、国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に会った。翌年の協定で、まだ見ぬ国の総督と総司令官に任じられる。一方、相棒のアルマグロに与えられたのは小さな町の長官の地位だけで、この差がのちの争いの種になった。ピサロは故郷から異母弟のエルナンドたちを連れて戻り、1530年末、180人ほどの兵と数十頭の馬を率いてパナマを出た。

ピサロが着いたとき、インカ帝国は最悪の時期にあった。ヨーロッパ人より先に天然痘が南米へ入り込み(天然痘のアメリカ大陸上陸)、皇帝ワイナ・カパックとその後継者が相次いで死んだ。その後、二人の王子ワスカルとアタワルパが王位を争う内戦になり、ちょうどアタワルパが勝ったばかりだった。ピサロは、帝国が割れていることを利用できた。

1532年11月16日、高原の町カハマルカで、ピサロは168人の兵を広場の周りの建物に隠し、アタワルパを迎えた(カハマルカの戦い)。同行の修道士が皇帝に祈祷書を差し出し、それが地面に落とされたのを合図に、大砲と騎兵が武器を持たない従者の群れに襲いかかった。数時間のうちに数千人が殺され、スペイン側の死者はほとんどいなかったとされる。皇帝は生け捕りにされた。

カハマルカの戦いに関わる図版:La Captura de Atahualpa - Juan Lepiani 1920s
カハマルカの戦いWikimedia Commons Juan Lepiani · Public domain

アタワルパは、自分が閉じ込められた部屋を、手を伸ばした高さまで金で満たし、さらに二部屋分の銀を差し出すと申し出た。帝国中から金銀が運ばれ、その多くは溶かされて延べ棒になった。だが身代金が集まった後の1533年7月、ピサロはアタワルパを反乱をたくらんだ罪で処刑した。この処刑には、本国でも国王をはじめ批判の声が上がったとされる。同じ年の11月、ピサロは都クスコに入り、王族のマンコ・インカを傀儡の皇帝に立てた(インカ帝国の滅亡)。1535年には海岸に新しい都リマを築いた。いまのペルーの首都である。

征服の後に残ったのは、征服者どうしの争いだった。豊かなクスコがどちらの領分に入るかをめぐって、ピサロ兄弟とアルマグロは対立した。1536年にはマンコ・インカがスペイン人に背いてクスコを包囲し、そのさなかにチリ遠征から戻ったアルマグロがクスコを奪った。1538年、エルナンド・ピサロがラス・サリナスの戦いでアルマグロを破り、処刑した。

ピサロのペルー征服(1531-1533年)での遠征路
ピサロのペルー征服(1531-1533年)での遠征路Wikimedia Commons William Robert Shepherd · Public domain

アルマグロの派は、先住民の女性との間に生まれた彼の息子を担いで復讐を誓った。1541年6月26日、その一味がリマのピサロの邸宅に押し入り、ピサロを殺した。60歳を過ぎていた。倒れたピサロが自分の血で床に十字を描き、それに口づけしたという最期は、目撃者の話として伝わるものである。

ピサロの征服は、少数の兵がいかに巨大な帝国を倒しえたかの例として語られてきた。だが実際には、疫病、内戦、そしてインカに支配されていた諸民族の協力が、勝敗を大きく左右した。ペルーでは征服者としての評価が厳しく、リマの中心の広場に立っていた彼の騎馬像は、2000年代に目立たない場所へ移された。バルトロメ・デ・ラス・カサスが告発したような新大陸の征服の典型として、エルナン・コルテスによるアステカの征服と並んで記憶されている。

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