人物

バルトロメウ・ディアス

Bartolomeu Dias
AD1450年頃 – AD1500年5月29日(享年50・推定)
ポルトガル帝国重要度 4

概要

嵐に流されてアフリカの南端を回り、「嵐の岬」と名づけた。王が「喜望峰」に変えた。インドへは行かせてもらえず、カブラルの船団の一隻を任され、その喜望峰の沖で嵐に沈んだ。

所属

ポルトガル帝国

関わったできごと(1)

喜望峰の回航AD1488年 · 船長

本文

バルトロメウ・ディアスは、ヨーロッパの船で初めてアフリカの南端を回り、大西洋からインド洋へ抜ける道を開いたポルトガルの航海者である。生まれた年も場所もはっきりしない。1450年ごろの生まれと推定され、国王ジョアン2世の宮廷に仕える騎士で、リスボンの王の倉庫の管理を任されていたことが記録に残る程度である。

1488年、喜望峰に標柱を立てるディアス(フランシスコ・ベンダ画、部分)
1488年、喜望峰に標柱を立てるディアス(フランシスコ・ベンダ画、部分)Wikimedia Commons F. Benda · Public domain

ポルトガルは、エンリケ航海王子の時代から半世紀以上をかけて、アフリカの西岸を少しずつ南へ探ってきた。1482年には黄金海岸にエルミナ城の建設を築き、同じころディオゴ・カンがコンゴ川の河口に達してコンゴ王国とポルトガルの接触が始まった。カンはさらに南の、いまのナミビアの海岸まで進んだ。アフリカの南の果てがどこにあるのか、その先にインドへ通じる海があるのか、まだ誰も知らなかった。ジョアン2世は、香辛料の産地インドへ海から直接たどり着くことを国の目標に掲げていた。

1487年8月、ディアスは二隻の小型の帆船と一隻の補給船を率いてリスボンを出た。カンが到達した地点を越えて南下し、補給船を途中の湾に残して、さらに進んだ。1488年の初め、船団は激しい嵐に巻き込まれ、陸の見えない沖合を13日間南へ流された。嵐が収まってから東へ舵を取ったが、陸は現れない。そこで北へ向かうと、2月3日、ようやく陸地が見えた。いまの南アフリカのモッセル湾である。海岸は東西に延びていた。船団は知らないうちにアフリカの南端を回り込んでいたのである。

喜望峰を越えたディアスの2隻の帆船、サン・クリストヴァン号とサン・パンタレアン号
喜望峰を越えたディアスの2隻の帆船、サン・クリストヴァン号とサン・パンタレアン号Wikimedia Commons Frederick Whymper · Public domain

湾の岸では、牛を飼う人々が暮らしていた。土地の牧畜民コイコイの人々である。船乗りたちが水を汲もうとすると石を投げられ、ディアスは弩で一人を射殺した。ヨーロッパ人と南部アフリカの人々との最初の出会いは、こうして血で始まった。

ディアスはさらに東へ進んだ。海岸線はやがて北東へ曲がり始め、インドへの道がここから開けていることがはっきりした。だが長い航海に疲れた船員たちは、食料の不安を訴えて引き返すよう迫った。ディアスは乗組員の会議を開き、あと数日だけ進むことを認めさせたが、それ以上は押し切れなかった。3月、海岸の岬に、ポルトガル王の紋章を刻んだ石の柱を立て、帰路についた。

帰りの航海で、船団は往きには見ずに通り過ぎた大きな岬を目にした。16世紀の歴史家ジョアン・デ・バロスは、ディアスがこれを「嵐の岬」と名づけ、国王がインドへの希望を込めて「喜望峰」と改めたと書いている。ディアス自身が最初から喜望峰と名づけたとする記録もあり、どちらが本当かは分からない(喜望峰の回航)。

1488年12月、ディアスは16か月ぶりにリスボンへ帰り着いた。そのときリスボンには、一人のジェノヴァ人がいた。コロンブスである。数年前にジョアン2世に西回りでアジアへ行く計画を退けられてスペインへ移っていたが、もう一度ポルトガル王に話を持ちかけようと戻っていたのだ。コロンブスは、ディアスの帰国の報告を聞いたと自分の蔵書の余白に書き残している。東回りの道が開けた以上、ポルトガルに西回りの計画を買う理由はない。コロンブスは再びスペインに望みを託し、4年後に大西洋を渡ることになる(コロンブスの到達)。

不思議なことに、ディアスはその後、インドへ向かう航海を任されなかった。理由は記録に残っていない。彼は次の航海に使う船の設計と建造の監督を任され、1497年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団に同行してアフリカ西岸沖のカーボヴェルデ諸島まで行き、そこで別れて黄金海岸のエルミナへ向かった。ガマは、ディアスが回った岬を越えてインドのカリカットにたどり着いた(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。

1500年、ディアスはペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いる13隻のインド遠征船団に、一隻の船長として加わった。船団は途中で大きく西へ外れて南米の陸地に着き(カブラルのブラジル到達)、そこから喜望峰を目指した。5月の末、南大西洋で嵐に襲われ、4隻が沈んだ。ディアスの船はその一隻だった。自分が見つけた岬の沖合で、彼は乗組員とともに消息を絶った。同じ船団にいた弟のディオゴは生き延び、のちにマダガスカルの島を見ている。

ポルトガルの国民的な叙事詩、カモンイスの『ウズ・ルジアダス』(1572年)には、喜望峰の化身である巨人アダマストルが登場し、自分の海を最初に破った者に罰が下ると予言する。ディアスの最期を踏まえた場面と読まれている。孫のパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスは、のちにアフリカ西岸のアンゴラにルアンダの町を築いた(ルアンダの建設と奴隷の積出)。

ディアスが初めて上陸したモッセル湾には、いま彼の名を冠した博物館があり、500周年の1988年にポルトガルから実際に航海してきた復元船が展示されている。

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