エルカーノ
概要
バスクのゲタリア。密輸で追われて航海に。マゼランに反乱して赦された。マゼランの死後、ビクトリア号を率いた。「最初に私を回った」の地球儀の紋章。1526年、二度目の太平洋で壊血病で死んだ。スペインの練習帆船の名。
関わったできごと(2)
マゼランの太平洋横断AD1521年 · 完成させたエルカーノの世界周航の完成AD1522年9月6日 · 完成させた本文
スペイン北部、バスク地方のギプスコアにある港町ゲタリアに生まれた。生まれた年ははっきりせず、1476年頃とも、10年ほど後とも言われる。海に面したバスクの町は、昔から腕のよい船乗りと船大工を生んできた。エルカーノも若い頃から海に出て、やがて自分の船を持つ船主になった。

彼は地中海で、スペイン王の軍事行動に船を出したと伝えられる。北アフリカのアルジェへの遠征や、イタリアをめぐる戦争である。だが、王室からの支払いは滞った。借金に追われたエルカーノは、自分の船をサヴォイアの商人たちに売った。スペインの法律では、外国人に船を売ることは禁じられていた。罪に問われる身になった彼は、遠い航海に出ることで罪を許してもらおうとしたらしい。
1519年9月、ポルトガル人のマゼランが率いる5隻の船団が、スペイン南部のサンルーカルを出航した。目的は、西へ進んで南アメリカの南端を回り、香辛料の産地であるモルッカ諸島に至る航路を見つけることだった。トルデシリャス条約で、スペインとポルトガルは地球を二つに分けて互いの領域を決めていたが、地球の反対側の境界線がどこを通るのかは分かっていなかった。モルッカがスペインの側にあると証明できれば、香辛料の富はスペインのものになる。エルカーノは5隻のうちの1隻、コンセプシオン号の航海長として乗り組んだ。

1520年の春、船団はパタゴニアのサン・フリアン湾で冬を越すことになった。寒さと食料の切り詰めに不満が募り、4月1日、スペイン人の船長たちが、ポルトガル人の司令官マゼランに対して反乱を起こした。エルカーノも反乱の側に加わった。マゼランは素早く反撃して反乱を鎮め、首謀者の一人を処刑し、別の一人を荒れ地に置き去りにした。エルカーノは許されたが、鎖につながれて労役を課された。
同じ年の10月から11月、船団はのちにマゼラン海峡と呼ばれる狭い水路を抜け、太平洋に出た。その後の3か月あまりの横断(マゼランの太平洋横断)で、食料は尽き、乗組員はネズミや革を食べ、壊血病で次々に死んだ。1521年3月、船団はフィリピンに着いた。マゼランはセブの王を味方につけてキリスト教に改宗させたが、4月27日、隣のマクタン島の首長ラプラプとの戦いで戦死した。その後まもなく、セブの王に招かれた宴で、残った隊の幹部たちが殺された。

人手の足りなくなった船団は、コンセプシオン号を焼き捨て、2隻で島々をさまよった。指導者も何度か入れ替わり、その中でエルカーノが頭角を現した。1521年11月、2隻はついにモルッカ諸島のティドレ島に着き、丁子を積み込んだ。ところが旗艦のトリニダード号は水漏れがひどく、修理してから太平洋を東へ戻ることになった。この船はのちにポルトガル人に捕らえられる。エルカーノはもう1隻のビクトリア号の船長として、西へ向かう道を選んだ。インド洋を横切り、アフリカの南端を回る航路は、ポルトガルの領域だった。見つかれば捕らえられる。
1521年12月、ビクトリア号はティドレを出た。ポルトガルの船を避けるため、港に寄らずにインド洋の南を進み、嵐の中で喜望峰を回った。食料は腐り、乗組員は飢えと病で死んでいった。1522年7月、補給のためにやむなくポルトガル領のカーボベルデ諸島に寄ったが、正体が露見して、上陸した13人が捕らえられた。ビクトリア号は残りの者だけで逃げ出した。

1522年9月6日、ビクトリア号はサンルーカルに帰り着いた(エルカーノの世界周航の完成)。3年前に5隻、240人あまりで出た船団のうち、戻ったのはこの1隻と18人だけだった。人類が初めて地球を一周したのである。生還者たちは、船の日誌で数えた日付が、陸の日付より1日遅れていることに驚いた。西へ回ったことで1日を失っていたのである。生き残りの一人で、航海の詳しい記録を書いたイタリア人のピガフェッタは、その記録の中でエルカーノの名をほとんど挙げていない。反乱に加わったエルカーノへの反感があったと考えられている。
国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はエルカーノを迎え、年金と紋章を与えた。紋章には地球儀が描かれ、ラテン語で「汝は初めて我を巡った」という言葉が添えられた。だが年金は、実際にはほとんど支払われなかったとされる。モルッカの帰属をめぐるスペインとポルトガルの交渉にも、エルカーノは航海の経験者として呼ばれた。
1525年7月、スペインはモルッカを確保するため、ロアイサを司令官とする7隻の船団を送り出した。エルカーノは副司令官として加わった。船団は嵐で散り散りになりながらマゼラン海峡を抜けたが、太平洋で再び壊血病が広がった。1526年7月30日、ロアイサが亡くなり、エルカーノが指揮を引き継いだ。だが彼自身もすでに病に冒されていて、数日後の8月4日、太平洋の上で亡くなった。遺体は海に葬られた。死の直前に書いた遺言には、故郷の母や、結婚しないままもうけた子とその母への遺贈が記されていた。
世界一周の栄誉は、長くマゼランのものとして語られてきた。だが、実際に地球を一周して戻ってきた船を率いたのはエルカーノだった。故郷ゲタリアには彼の像が立ち、スペイン海軍の練習帆船は1927年から彼の名を冠している。のちにスペインは、マゼランが着いたフィリピンを植民地にし(スペインのフィリピン支配)、太平洋を越えてアジアとアメリカを結ぶ航路を開くことになる。