ウルダネタ
概要
17歳で香料諸島へ、8年で帰った。アウグスティノ会の修道士になった。60歳で「帰り道」を探しに呼ばれた。北緯38度まで上がって偏西風で東へ。4か月。ウルダネタの道。250年、ガレオンが同じ道を通った。
本文
1508年、スペイン北部バスク地方のギプスコア県オルディシアに生まれた。家は土地の名家だった。バスクは船乗りと造船の土地で、マゼランの船団を率いて世界を一周して帰ったエルカーノも同じギプスコアの出身だった。

1522年、エルカーノはただ一隻残ったビクトリア号でスペインに帰り着き(エルカーノの世界周航の完成)、香料の島モルッカ諸島への西回りの航路があることを示した。スペインはすぐに次の船団を送った。1525年、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサを司令官とする7隻がスペインを出た。その中に、17歳のウルダネタがいた。エルカーノはこの船団の水先案内人で、ウルダネタは彼に仕えた。
航海は過酷だった。マゼラン海峡を抜けて太平洋に出たのち、壊血病が船を襲い、1526年、司令官ロアイサが死に、数日後にはエルカーノも死んだ。ウルダネタはエルカーノの遺言状の証人になっている。生き残った者たちはモルッカ諸島に着き、ティドレ島などに拠ってポルトガル人と戦った。若いウルダネタは戦いに加わりながら島の言葉を覚え、土地の王たちとの交渉役も務めた。
困ったことに、モルッカから東へ、太平洋を越えて戻る道を誰も知らなかった。東から西へ吹く貿易風に逆らって進むことはできず、本国からの救援船も帰路を見つけられずに何度も引き返した。1529年、スペインはサラゴサ条約でモルッカの権利をポルトガルに売り渡し、残された者たちは見捨てられた。ウルダネタたちは8年ほど島で耐えたのち、ポルトガルの船でインド洋を回り、1536年、リスボン経由でスペインに戻った。リスボンでは、ポルトガル人に航海の記録や海図を取り上げられた。
帰国後、ウルダネタは国王に経験を報告し、やがて新大陸のメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に渡って役人として働いた。1552年、40代の半ばで、メキシコ市のアウグスティノ会の修道院に入り、修道士になった。航海者としての人生は終わったように見えた。
1559年、国王フェリペ2世から手紙が届いた。西の島々、のちのフィリピンへ船団を送るので加わってほしい、という依頼だった。マゼラン以来40年近く、スペインはアジアへ行くことはできても、戻ることができずにいた。太平洋を東へ渡る帰り道を見つけられるとすれば、この海を知るウルダネタしかいない。彼は引き受けたが、フィリピンは条約によればポルトガルの側に入るのではないかと異を唱え、ニューギニアを目指すべきだと進言した。
1564年11月、ミゲル・ロペス・デ・レガスピを司令官とする船団がメキシコの太平洋岸の港を出た。ウルダネタは56歳で、案内役として乗っていた。行き先は海に出てから開ける命令書で明かされ、それはフィリピンだった。翌年、船団はフィリピンに着き、セブ島に拠点を築いた(スペインのフィリピン支配)。
1565年6月1日、ウルダネタはサン・ペドロ号に乗ってセブを出た。彼は東へ向かわず、まず北へ進んだ。日本の沖を北上する黒潮の流れに乗り、北緯40度近くまで上がると、そこでは西から東へ風が吹いていた。偏西風である。船はその風を受けて太平洋を一気に東へ横断し、北アメリカの西岸に達してから沿岸を南下した。10月8日、メキシコのアカプルコに入港した。4か月あまりの航海で、乗組員の多くが壊血病などで死に、動ける者はわずかだったという。
実はその少し前、船団からはぐれた小型船サン・ルーカス号が、別の航路でメキシコに帰り着き、その船長アロンソ・デ・アレリャーノは自分が最初に帰り道を見つけたと名乗り出ていた。だが、航路を緯度と風と海流の記録とともに詳しく書き残し、誰でも繰り返せる道にしたのはウルダネタだった。この帰り道は「トルナビアヘ」と呼ばれる。
ウルダネタは1566年にスペインへ渡ってフェリペ2世に報告し、メキシコの修道院に戻ったのち、1568年6月3日にメキシコ市で死んだ。60歳ほどだった。彼の見つけた道を通って、1565年から1815年まで250年にわたり、マニラとアカプルコを結ぶガレオン船が毎年行き来した(マニラ・ガレオン貿易)。アジアの絹や磁器が東へ、新大陸の銀が西へ運ばれ、太平洋は初めて定期航路で結ばれた。往きは南の貿易風で西へ、帰りは北の偏西風で東へ。この太平洋を回る道の発見は、修道服を着た一人の航海者の名とともに記憶されている。