カブラルのブラジル到達
概要
インドへ向かう13隻が、大西洋を大きく西に膨らんで、陸を見た。「真の十字架の地」と名づけて、木を切って十字架を立て、ミサをして、インドへ去った。トルデシリャス条約の線の東側だった。それでブラジルはポルトガル語になる。
場所
-16.45°N -39.06°E · ブラジル・バイーア州
関わった人(1)
ペドロ・アルヴァレス・カブラルAD1467年頃–AD1520年頃 · 司令官本文
1499年の夏、ヴァスコ・ダ・ガマの船隊が、インドからリスボンに帰ってきた(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。アフリカの南端を回ってインドへ行く海の道が開かれた。ポルトガルの王マヌエル1世は、すぐに次の船団を送ることを決めた。今度は香辛料を積んで帰るための大がかりな商いの船団であり、同時に、インドの王たちに力を見せつける艦隊でもあった。
1500年3月9日、13隻の船がリスボンを出た。乗り組んだのは1200人から1500人ほどとされ、ガマの船隊よりはるかに大きい。司令官に任じられたのは、30歳を少し過ぎた貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラルだった。航海の経験がどれほどあったかははっきりせず、家柄と王の信頼で選ばれたと考えられている。船長の中には、喜望峰を初めて回ったバルトロメウ・ディアスもいた。

船団はアフリカの西のヴェルデ岬諸島を過ぎると、大西洋を大きく南西へ回り込んだ。アフリカの海岸沿いを進むと、赤道付近の無風帯や逆風に悩まされる。沖へ大きく出て風をつかみ、南から喜望峰へ回り込む。ガマが切り開いた航路で、カブラルはそれを指示されていた。ただ、どこまで西へ寄ったのか、それが風のせいだったのか、ひそかに西の陸地を探すつもりだったのかは、今も議論が分かれている。
4月22日、西の水平線に山が見えた。復活祭の季節だったので、パスコアル山(復活祭の山)と名付けられた。数日後、船団は風を避けられる入り江に入り、そこを安全な港を意味するポルト・セグーロと呼んだ。浜には先住民の人々が出てきた。トゥピ系の言葉を話す人々で、体に色を塗り、鳥の羽で身を飾り、弓矢を持っていた。言葉は通じなかったが、互いに品物を交換し、人々は船にも招かれた。

この10日ほどの出来事を、船団の書記ペロ・ヴァス・デ・カミーニャが、王にあてた長い手紙に書き残した。彼は人々の姿や暮らしを細かく、驚きをもって描き、この土地の人々は無垢であり、彼らを救うこと、つまり信仰を伝えることこそ、ここで得られる最大の実りだろう、と書いた。手紙はのちに「ブラジルの出生証明書」と呼ばれることになる。
4月26日、浜で最初のミサが行われた。5月1日には、木を切って大きな十字架を立て、もう一度ミサを行い、先住民たちもそれを見守った。カブラルはこの土地を「ヴェラ・クルス(真の十字架)の島」と名付け、ポルトガル王のものとした。大きな島だと考えていたのである。1隻を発見の知らせのためにリスボンへ帰し、5月2日、船団は本来の目的地のインドへ向けて出航した。

その先の航海は過酷だった。5月の終わり、喜望峰の沖で嵐に襲われ、4隻が沈んだ。その中に、かつてこの岬を初めて回ったディアスの船もあった。9月、残った船はインドのカリカットに着き、商館を開いたが、イスラームの商人たちとの争いから商館が襲われ、カブラルは町を砲撃して報復した。その後、南のコーチンで香辛料を積み、1501年にリスボンに帰った。帰り着いたのは出発時の半分ほどの船だった。
カブラルが見つけた土地の名は、その後、真の十字架の地から聖なる十字架の地へと変わり、やがてブラジルと呼ばれるようになった。その海岸の森には、赤い染料がとれる木が多く生えていた。燃える炭火(ブラザ)のような赤い色から、その木はパウ・ブラジルと呼ばれていた。この木を切り出してヨーロッパへ運ぶ商いが、最初の産業になった。商品の名が、国の名になったのである。
カブラルが上陸した海岸は、1494年のトルデシリャス条約が引いた線の東側にあった。スペインとポルトガルは、大西洋に南北の線を引き、西をスペイン、東をポルトガルのものと決めていた。ポルトガルは交渉の中で、この線をはじめの案よりずっと西へ動かさせていた。南アメリカの東の張り出しは、その線の東に入った。ポルトガルはこの時すでに西の陸地の存在を知っていたのではないか、と疑う研究者もいるが、確かな証拠はない。

いずれにせよ、この線のおかげで、南アメリカの東の大きな部分はポルトガルのものになった。16世紀の半ば以降、ポルトガル人はこの地に砂糖の農園を開き、アフリカから大勢の人々を奴隷として連れてきた。ブラジルが独立するのは1822年(ブラジルの独立)、奴隷制が廃止されるのは1888年である。南アメリカの中でブラジルだけがポルトガル語を話すのは、この1500年4月の上陸と、その6年前に引かれた一本の線による。