できごと

イベリア連合

Iberian Union
AD1580年
重要度 3
スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ロシア帝国ノガイ・オルダポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェースウェーデンソンガイ帝国マリ帝国神聖ローマ帝国フランス王国スペインカネム=ボルヌWatassid MoroccoダルフールEngland and Irelandセネガルハウサ諸王国クリム・ハン国ヴェネツィア共和国ワダイ王国スコットランドモシ諸王国BagirmiHabsburg NetherlandsNaplesプロイセンAD1580年リスボン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1580年の版図を描いています(29勢力)。

概要

スペイン王がポルトガル王を兼ねた60年。二つの帝国が一人の君主の下に並ぶが、統合はされなかった。

場所

リスボン
38.72°N -9.14°E · ポルトガル

本文

1578年の夏、ポルトガルの若い王セバスティアンは、北アフリカのモロッコへ大軍を率いて渡った。イスラーム教徒と戦う十字軍の夢に取りつかれた24歳の王は、周りの忠告を聞かず、国の貴族の多くを連れて出陣した。8月、アルカセル・キビールの戦いで、ポルトガル軍は壊滅した。王は戦死し、遺体ははっきり確かめられなかった。多くの貴族が死に、あるいは捕らえられて、その身代金のために国の財政は傾いた。

セバスティアンには子がいなかった。王位は大叔父の枢機卿エンリケが継いだが、すでに60代の半ばを過ぎた病身の聖職者で、跡継ぎを望めなかった。1580年1月、エンリケは後継を決めないまま死んだ。

イベリア半島の地図(1570年)
イベリア半島の地図(1570年)Wikimedia Commons C3PO · Public domain

王位を求めた者は何人もいた。血のつながりで最も近いと主張したのが、スペイン王フェリペ2世だった。母がポルトガル王マヌエル1世の娘で、フェリペはその孫にあたる。ほかに、マヌエル1世の孫で国内の有力な貴族の家に嫁いだブラガンサ公爵夫人カタリナと、王族の庶子で民衆に人気のあったクラト修道院長アントニオがいた。

フェリペは、金と約束で貴族や聖職者を味方に引き入れる一方、軍を国境に集めた。アントニオがリスボンで王を名乗ると、老将アルバ公の率いるスペイン軍が攻め込み、8月、リスボンの近くのアルカンタラで彼の軍を破った。翌1581年、フェリペはポルトガルの中部の町トマールで議会を開き、ポルトガル王フィリペ1世として認められた。

1625年、ブラジルのサルヴァドール市をポルトガルが解放したときの地図。
1625年、ブラジルのサルヴァドール市をポルトガルが解放したときの地図。Wikimedia Commons Victorcouto · Public domain

ただし、ポルトガルはスペインに統合されたわけではなかった。フェリペはトマールの議会で、ポルトガルの法と慣習を守り、役職にはポルトガル人だけを就け、議会と通貨を別のままにし、海外の領土もポルトガルの手で治めると約束した。同じ人物が二つの王冠をかぶる、「同君連合」という形である。ブラジルから、アフリカの沿岸、インドのゴア、マラッカ(マラッカの陥落)、マカオ、そして日本との交易に至るまで、ポルトガルの海の帝国は、スペインがアメリカ大陸とフィリピンに築いた帝国と、一人の君主の下に並ぶことになった。地球を一周する、史上初めての規模の帝国だった。

一方で、ポルトガルの人々の中には、スペインの支配を嫌う気持ちが根強く残った。アルカセル・キビールで死んだはずのセバスティアン王は実は生きていて、いつか霧の朝に帰ってきて国を救う、という信仰が広まった。王を名乗る偽者も何人も現れた。この「セバスティアニズモ」と呼ばれる救い主を待つ思いは、その後もポルトガルの文化の中に長く生き続ける。

同君連合の不利益は、外から来た。スペインの敵が、そのままポルトガルの敵になったのである。スペインは当時、独立を求めて戦うネーデルラントの人々(のちのオランダ)と長い戦争の最中にあり、イギリスとも争っていた(アルマダの海戦)。それまでポルトガルと商売をしていたオランダの商人は、リスボンの港から締め出されると、香辛料を自分たちで手に入れるために、直接アジアへ船を出し始めた。

アルマダの海戦に関わる図版:Loutherbourg-Spanish Armada
アルマダの海戦Wikimedia Commons Philip James de Loutherbourg · Public domain

1602年にオランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)ができると、オランダはアジアのポルトガルの拠点を次々に攻めた。香料諸島のアンボンやティドレなどのポルトガルの拠点は奪われ、香辛料の取引の主導権はオランダに移っていった。1622年には、ペルシア湾の入口のホルムズが、イギリス東インド会社の船の助けを得たペルシア軍に落とされた。大西洋の向こうでも、オランダは1624年にブラジルの都バイーアを一時占領し、1630年からはブラジル北東部の砂糖の産地ペルナンブーコを奪って、20年以上にわたって支配した。西アフリカの拠点エルミナも1637年にオランダの手に落ちた。

ポルトガル側の不満は、スペインの政策によっても強まった。スペインの宰相オリバーレスは、王国ごとの違いを減らし、戦争の負担をポルトガルにも重く課そうとした。重い税と、スペインの戦争に兵を出せという求めが、ポルトガルの貴族や民衆の反発を招いた。

1630:世界最大の砂糖生産地であるブラジル・ペルナンブーコ州のオリンダをオランダが包囲する。
1630:世界最大の砂糖生産地であるブラジル・ペルナンブーコ州のオリンダをオランダが包囲する。Wikimedia Commons John Ogilby · Public domain

1640年12月1日、リスボンの貴族たちが立ち上がった。同じ年にスペインの北東部カタルーニャでも反乱が起き、スペインは手が回らなかった。貴族たちは、かつての王位の候補者カタリナの孫にあたるブラガンサ公を王に推し、ジョアン4世として即位させた。60年続いた同君連合は終わった。ただ、スペインがポルトガルの独立を認めるまでには、さらに28年にわたる戦いが続く。

失ったものは、多くが戻らなかった。王政を取り戻した後も、オランダとの戦いは続き、1641年にはマラッカが、1650年代にはセイロン(いまのスリランカ)の拠点が、オランダに奪われた。日本では、江戸幕府が1639年にポルトガル船の来航を禁じており(鎖国の完成)、長崎での西洋との交易はオランダが独占することになった。一方で、ブラジルの北東部は1654年に現地の人々の戦いによって取り戻され、アフリカのアンゴラも奪い返された。ポルトガルの海の帝国は、アジアでは縮み、大西洋のブラジルを中心とする帝国へと形を変えていく。

ジョアン4世のポルトガル国王としての宣言(1908年)
ジョアン4世のポルトガル国王としての宣言(1908年)Wikimedia Commons Veloso Salgado · Public domain

アジアの海の主役は、ポルトガルからオランダへ移った。17世紀のオランダの繁栄(オランダの黄金時代)は、イベリア連合の時代にポルトガルから奪い取った交易の上に築かれたものでもあった。

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