ヘンリー・ハドソン
概要
生まれも育ちも分からない。4回の航海で、北極、ハドソン川、ハドソン湾。マンハッタンを見た最初のヨーロッパ人の一人。最後の航海で船員に小舟に乗せられ、氷の海に消えた。反乱者は帰って、裁かれなかった。
関わったできごと(1)
ハドソン湾の発見と遭難AD1611年6月 · 船長本文
ヘンリー・ハドソンについて、確かに分かっていることは、1607年から1611年までの、わずか4年あまりのことにすぎない。生まれた年も場所も分からず、1560年代から70年代の生まれと推し量られているだけである。ロンドンの、北の海への航路を開こうとした商人の会社、モスクワ会社に関わる家の出だったとも言われ、同じ名の人物がその会社の創立に加わっていたことから、その孫ではないかという説もある。妻と三人の息子がいたことは分かっている。いま見られる彼の肖像画は、すべて後の時代の想像で描かれたものだ。

16世紀の末から17世紀のはじめ、イギリスやオランダの商人たちは、アジアの香辛料や絹の取引に割り込もうとしていた。だが、アフリカの南を回る航路はポルトガルが、南アメリカの南を回る航路はスペインが押さえていた。残る望みは、北の海を抜けてアジアへ出る道だった。ヨーロッパの北を東へ回る北東航路か、アメリカ大陸の北を西へ抜ける北西航路(北西航路の初めての通過)か。北極の近くは夏には日が沈まず、海が暖かくなって氷が解けるのではないか、と考える学者もいた。
1607年、ハドソンはモスクワ会社に雇われ、小さな船ホープウェル号で、北極を越えて中国へ向かう航海に出た。十代の息子ジョンも乗っていた。船はグリーンランドの東の岸を北へ進み、さらにスヴァールバル諸島の沖で、北緯80度を超えるところまで達した。だがその先は、厚い氷に閉ざされていた。中国への道は見つからなかったが、ハドソンは帰国して、その海に鯨やセイウチがおびただしくいることを報告した。これがきっかけとなって、イギリスの捕鯨船が北の海へ向かうようになった。

翌1608年、彼は再びモスクワ会社のために、今度は北東の、ロシアの北のノヴァヤゼムリャの方面へ向かったが、やはり氷に阻まれた。この航海の日誌には、乗組員の二人が人魚を見たという記録が残っている。腰から上は女の姿で、肌は白く、長い黒髪をしていて、尾は鯖のようにまだらだった、と。モスクワ会社は、それ以上の航海に金を出さなかった。
1609年、ハドソンは、アムステルダムのオランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)に雇われた。契約では、ノヴァヤゼムリャの北を東へ回る道を探すことになっていた。小型の船ハーフ・ムーン号に、イギリス人とオランダ人の船員を乗せて出たが、ノルウェーの北の海で再び氷に阻まれ、寒さに苦しむ船員たちは不満を募らせた。するとハドソンは、契約に反して船を西へ向けた。彼は、北アメリカのヴァージニアに植民地を開いていたジョン・スミス(ジェームズタウンの建設)から、北緯40度のあたりに、大陸を横切って西の海へ抜ける水路があるかもしれない、という知らせを受け取っていたのである。
ハーフ・ムーン号は大西洋を渡り、北アメリカの東の海岸を南へ北へと探った。9月、船は大きな湾に入り、その奥に続く広い川をさかのぼり始めた。川の河口の島には、のちにマンハッタンと呼ばれることになる森が広がっていた。川沿いに住む先住民は、毛皮やトウモロコシ、タバコを持って船に近づき、ナイフやビーズと交換した。贈り物を交わす穏やかな出会いもあれば、矢を放たれて船員が殺され、こちらも撃ち返す争いもあった。船はいまのオールバニのあたりまで、およそ240キロをさかのぼったが、川はしだいに浅く狭くなり、海へ抜ける道ではないことがはっきりした。
帰りの途中、船はイングランドのダートマスの港に入った。イギリスの役所は、イギリス人が外国のために航海することを禁じ、ハドソンをオランダへ行かせなかった。船と航海の記録はオランダに送られた。オランダの商人たちは、ハドソンが見た川の流域に毛皮の豊かな土地があることを知り、やがてそこに交易所を開いた。1620年代には、川の河口の島に、ニューアムステルダムの町が築かれる。のちのニューヨークである。川は、ハドソン川と呼ばれるようになった。

1610年、ハドソンは、今度はイギリスの出資者たちのために、ディスカヴァリー号で北西航路を探しに出た。グリーンランドの南を回り、荒れた海峡を抜けると、その先に、果てしなく広がる海が開けた。ハドソンは、ついに太平洋へ通じる海に出たと信じたに違いない。だがそれは、北アメリカの大陸に深く食い込んだ巨大な湾だった。船は湾の南の奥で冬を迎え、氷に閉じ込められた。寒さと飢えの中で、船長と船員たちの間の不信が深まっていった(ハドソン湾の発見と遭難)。
1611年6月、氷が解けて船が動けるようになると、船員の一部が反乱を起こした。ハドソンが食べ物を隠し、気に入りの者にだけ分けている、という疑いが引き金だったと伝えられる。反乱者たちは、ハドソンと息子のジョン、病人ら8人ほどを小さな舟に押し込み、氷の浮かぶ湾に置き去りにして船を出した。小舟の人々のその後は、誰も知らない。

イギリスに帰り着いたのは、反乱者のうち8人ほどだった。首謀者の何人かは、帰りの途中で先住民との争いに倒れていた。生き残った者の一人が書いた記録は、自分は反乱に加わらず、むしろ止めようとしたのだと弁明している。残っている話は、こうした反乱の側の言い分だけである。彼らは後に裁かれたが、北西航路の知識を持つ者として重んじられたこともあってか、罰を受けなかった。
ハドソンは、探していたアジアへの道を見つけることはできなかった。だが、彼の名は、北アメリカの地図に深く刻まれた。オランダが植民地を築いたハドソン川、北の海へ通じるハドソン海峡、そして彼が最後の冬を過ごしたハドソン湾である。1670年には、この湾の周りの毛皮の取引を一手に握るハドソン湾会社がイギリスで作られ、その広大な土地は、のちにカナダの一部になった。顔も、生まれも、最期も分からない一人の船乗りが、二つの国の植民地の始まりに名を残したのである。