マゼランの太平洋横断
概要
99日かけて太平洋を渡った。海図が無く、この海の広さを誰も知らなかった。
場所
13.44°N 144.79°E · アメリカ合衆国領
関わった人(2)
マゼランAD1480年頃–AD1521年4月27日 · 当人エルカーノAD1476年–AD1526年8月4日 · 完成させた本文
1519年9月、マゼランの率いる5隻の船団が、スペインのサンルーカルの港を出た。目指したのは、香辛料の産地モルッカ諸島である。トルデシリャス条約によって、大西洋を東へ回る航路はポルトガルのものとされていた。マゼランは、西へ進み、南アメリカ大陸の南のどこかにある海峡を抜ければ、スペインの側から香料諸島に着けると考えた。乗組員は240人から270人ほどだったとされる。
南米の沿岸を南下する航海は、反乱や難破で多くを失った。1520年10月、ようやく見つけた海峡は、迷路のような水路が600キロ近く続いていた。1隻はこの途中で船団を離れ、勝手にスペインへ帰ってしまった。11月28日、残った3隻が海峡を抜けて大海に出た。荒れた海峡のあとで穏やかに見えたこの海を、マゼランは「平和な海」と呼んだ。太平洋の名はここから来ている。

マゼランは、この海がそれほど広いとは思っていなかったらしい。当時の地図は、アジアの東の岸を実際よりはるかに東に描いていた。陸地は数週間で見えるはずだった。ところが船団は、西へ西へと進んでも、小さな無人島を二つ見ただけで、まともな陸地にたどり着けなかった。
航海に加わったイタリア人アントニオ・ピガフェッタの記録が、その日々を伝えている。乾パンは粉になって虫がわき、鼠の小便の臭いがした。帆桁に巻いた牛の革を数日海水に浸してやわらかくし、焼いて食べた。おがくずも食べた。鼠は一匹が金貨半枚で売り買いされた。水は黄色く腐っていた。壊血病が広がり、歯茎が腫れて物を食べられなくなった者たちが次々に死んだ。ピガフェッタは、こんな航海をもう一度しようという者はいないだろう、と書いている。

1521年3月6日、海峡を出てから3か月あまりの後に、船団はマリアナ諸島のグアム島に着いた。島の人々、チャモロの人々が小舟で船に近づき、品物を持ち帰った。所有の考え方の違いもあったとみられるが、ヨーロッパ人はこれを盗みとみなし、小舟を奪われたことに怒ったマゼランは兵を上陸させて家を焼き、何人かを殺した。そして島々に「盗人の島」という名を付けた。船団はここで水と食料を得て、さらに西へ向かった。
チャモロの人々はこのとき、すでに3000年以上前から島々に住んでいた。東南アジアの島々から海を渡ってきた人々の子孫で、石の柱の上に建物を載せる独特の建築で知られる。グアムでの衝突は、太平洋の島の人々とヨーロッパ人との最初の出会いの一つだった。17世紀にスペインが島々を本格的に支配するようになると、戦争と持ち込まれた病によって、チャモロの人口は激減する。

3月の半ば、船団はフィリピンの島々に着いた。マゼランはセブの王を洗礼させ、周りの首長たちにも服従を求めた。これを拒んだマクタン島の首長ラプ=ラプを討とうとして、4月27日、浅瀬での戦いで死んだ。グアムに着いてから2か月足らずのことである。残った人々は1隻を焼き、2隻でモルッカ諸島に達した。最後はエルカーノが指揮するビクトリア号が、喜望峰を回って1522年9月にスペインへ帰り着いた(エルカーノの世界周航の完成)。生きて帰ったのは18人だった。
この世界周航全体の経緯は世界一周の達成に詳しい。太平洋の向こう側でスペインとポルトガルの勢力の境がどこになるかという問題は、この航海によってにわかに現実のものとなり、両国はモルッカ諸島の帰属をめぐって争った末、1529年の条約でスペインがモルッカに対する主張を金で売り渡すことになる。

太平洋の横断は、この航海で最も過酷な部分だった。それは同時に、地球がどれほど大きく、その表面のどれほどを海が占めているかを、ヨーロッパの人々が身をもって知った出来事でもあった。スペインはこのあとフィリピンを支配下に置き(スペインのフィリピン支配)、メキシコのアカプルコとマニラを結ぶ太平洋航路を開く。グアムは、その航路の中継地として、長くスペインの島となった。