ペドロ・アルヴァレス・カブラル
概要
ガマの次にインドへ送られ、途中でブラジルに着いた。カリカットで工場を襲われ、報復に街を砲撃し、香料を積んで帰った。13隻のうち7隻を失った。二度目の航海はガマに取られ、田舎で死んだ。
所属
ポルトガル帝国関わったできごと(1)
カブラルのブラジル到達AD1500年4月22日 · 司令官本文
1467年か1468年、ポルトガル中部の山あいの町ベルモンテで、その地の領主フェルナン・カブラルの子として生まれた。貴族の次男以下の子として宮廷で育ち、王に仕えて、キリスト騎士団の騎士となり、王の顧問会議にも名を連ねた。ただ、それ以前に航海や戦争で目立った働きをした記録は見つかっていない。

1499年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドから戻り、海路で香料の国へ行けることを証明した(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。国王マヌエル1世はすぐに、これを本格的な交易に変えるための大船団を用意させた。13隻、1000人を超える乗組員を乗せた、それまでで最大の船団である。その司令官に、32歳のカブラルが選ばれた。なぜ彼だったのかは分からない。家柄と、王の信頼だったとみられる。航海の実務には、喜望峰を初めて回ったバルトロメウ・ディアスら、経験を積んだ船長たちが付けられた。
1500年3月9日、船団はリスボンを出た。ヴェルデ岬諸島を過ぎると、アフリカの沿岸の無風帯を避けて大きく南西へ回り込んだ。4月22日、西の水平線に山が見えた。復活祭の季節にちなんでパスコアル山と名づけられたその山は、南アメリカの陸地だった(カブラルのブラジル到達)。船団は今のポルト・セグーロ付近に錨を下ろし、浜で先住の人々と贈り物を交わし、ミサを挙げ、十字架を立てた。カブラルはこの地を「真の十字架の島」と名づけ、補給船を1隻、報せのためにリスボンへ送り返した。同行した書記ペロ・ヴァス・デ・カミーニャが王に宛てた手紙は、ブラジルの「出生証明書」と呼ばれている。
この到達が偶然だったのか、それとも、トルデシリャス条約で自国の側に入る西の陸地をひそかに確かめに行ったのかは、長く議論されてきた。南西への大きな迂回は、喜望峰へ向かう帆船の通常の進路でもあり、偶然と見る研究者が多い。また、同じ年の1月にはスペインのビセンテ・ヤーニェス・ピンソンがすでにブラジルの北東の海岸に達していた。それでもポルトガルが領有を主張し、のちにブラジルを築いた起点は、カブラルの上陸に置かれている。

10日ほどの滞在のあと、船団はアフリカへ向かった。5月、喜望峰の近くで嵐に遭い、4隻が沈んだ。その中に、喜望峰を見つけた当のディアスの船があった。1隻は船団からはぐれ、マダガスカル島を見つけている。生き残った船は東アフリカの沿岸を北上し、インド洋を渡った。
9月13日、インド西岸のカリカットに着いた(カリカット到着)。カブラルは土地の王ザモリンと交渉し、商館を開く許しを得た。だがカリカットの交易は、長くアラブやペルシアのムスリム商人が握っていた。新参のポルトガル人が香料を優先して買い付け、ムスリム商人の船を押さえるに及んで、緊張は高まった。12月、群衆が商館を襲い、カミーニャを含むポルトガル人50人ほどが殺された。カブラルは港にいたムスリム商人の船10隻ほどを奪って乗組員を殺し、船を焼き、さらにカリカットの町を砲撃した。

そのあと船団は南のコーチンに向かった。コーチンの王はザモリンと対立していて、ポルトガル人を歓迎した。船倉に胡椒やシナモン、生姜を積み込み、カブラルは帰途についた。1501年の夏、リスボンに戻ったとき、13隻のうち無事に帰り着いたのは半分ほどだった。それでも、持ち帰った香料の売り上げは遠征の費用を大きく上回ったと伝わる。一方で、カリカットとの争いは、ポルトガルがインド洋で武力に頼って交易を広げていく出発点になった。
次の船団の司令官には、はじめカブラルが選ばれたとされる。ところが、理由ははっきりしないが、最終的にはガマが指名され、1502年、ガマが大艦隊を率いてカリカットへ報復に向かった。指揮の権限をめぐる対立があったとも言われる。カブラルは二度と海に出なかった。のちにインド総督となるアフォンソ・デ・アルブケルケの姪イザベル・デ・カストロと結婚し、リスボンの北のサンタレンの近くで暮らし、1520年頃に死んだ。サンタレンの教会に葬られた。

その墓は長く忘れられていたが、19世紀にブラジルの歴史家によって改めて確かめられた。独立したブラジルにとって、カブラルは国の始まりに立つ「発見者」であり、リオデジャネイロやサンパウロにはその像が立っている。ポルトガルでは、インドへの航路を開いたガマの陰に隠れがちな人物である。陸地を見つけたのは航海のほんの寄り道だったが、その寄り道が、南アメリカで唯一ポルトガル語を話す大国を生んだ。