できごと

マラッカの陥落

Capture of Malacca
AD1511年
重要度 3
オーストラリア先住民(狩猟採集)明ティムール朝の諸侯国サファヴィー朝チベット白羊朝マレーのイスラム諸国デリー・スルタン朝イスラムの諸国ビルマの諸王国Rajastanヴィジャヤナガル王国ベンガルアユタヤ朝パプアニューギニアアフマドナガル王国大越フィリピン大越MalaccaカンボジアマジャパヒトオリッサBijapurラオスGolkondaPeguシンハラの諸王国AD1511年マラッカ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1511年の版図を描いています(28勢力)。

概要

ポルトガルが東南アジア交易の要衝を押さえた。ヨーロッパのアジア進出の足がかりになる。

場所

マラッカ
2.19°N 102.25°E · マレーシア

関わった人(1)

ヴァスコ・ダ・ガマAD1460年代–AD1524年 · 航路を開いた

本文

マレー半島とスマトラ島の間を、細長いマラッカ海峡が通っている。インド洋と南シナ海を結ぶ海の近道で、季節風に乗ってインドや西アジアから来る船も、中国から来る船も、ここを通る。風向きが変わるのを待つ間、船はこの海峡の港で荷を降ろし、取引をし、次の季節風を待った。15世紀の初め、その港として急に大きくなったのがマラッカだった。

マラッカ王国は、1400年ごろ、スマトラから逃れてきた王子パラメスワラが開いたと伝えられる(マラッカ王国の成立)。王国はすぐに明に使いを送り、その保護を求めた。ちょうどそのころ明の鄭和の大艦隊が南の海を巡っており、マラッカはその寄港地として倉庫が置かれた(鄭和の南海遠征)。明の後ろ盾を得たマラッカは、北のアユタヤの圧力をはね返して育っていった。王はやがてイスラームを受け入れ、マラッカはムスリム商人の集まる港として、東南アジアにイスラームを広める拠点にもなった。

マラッカ攻略を描いた習作(エルネスト・コンデイシャ画)
マラッカ攻略を描いた習作(エルネスト・コンデイシャ画)Wikimedia Commons Ernesto Ferreira Condeixa · Public domain

16世紀の初め、マラッカは東南アジアで最も大きな交易の港だった。この時期にマラッカを訪れたポルトガル人トメ・ピレスは、港では84の言葉が話されていたと書いている。インドのグジャラートやベンガル、タミルの商人、アラブやペルシアの商人、ジャワの商人、中国や琉球の船。香料諸島の丁子やナツメグ、スマトラの胡椒、インドの綿布、中国の絹と陶磁器が、ここで取引された。

そこへ、西からポルトガルが来た。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの南を回ってインドへ着いて以来、ポルトガルは、アジアの香辛料の取引を自分たちの手に握ろうとしていた。それまで香辛料は、ムスリム商人の手で紅海やペルシア湾を通って地中海へ運ばれ、ヴェネツィアの商人がヨーロッパ中に売っていた。その流れを断ち、喜望峰を回る自分たちの航路に切り替えれば、莫大な利益が手に入る。

マラッカ王国のマレー人(『カサナテンセ写本』より)
マラッカ王国のマレー人(『カサナテンセ写本』より)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

1509年、ポルトガルの船隊が初めてマラッカに来た。だが、ポルトガルを警戒した港の有力者たちが襲撃をはかり、船隊は乗組員の一部を捕虜に残して逃げ帰った。これが攻撃の口実になる。

インドで総督の地位にあったアフォンソ・デ・アルブケルケは、1510年にインド西岸のゴアを攻め取り、アジアでのポルトガルの拠点としていた。翌1511年、彼は18隻ほどの船と、ポルトガル兵とインド兵を合わせて千人あまりの兵を率いてマラッカに現れた。7月に攻撃を始め、港を二つに分ける川に架かる橋をめぐる激しい戦いの末、8月の終わりに町を落とした。スルタンのマフムード・シャーは都を捨てて南へ逃れた。

マレー人の夫婦
マレー人の夫婦Wikimedia Commons Georg Franz Müller · Public domain

アルブケルケは、町の丘の上に石の砦を築かせた。のちにア・ファモーザと呼ばれるこの砦の門の一部は、今もマラッカに残っている。ピレスは、マラッカを支配する者はヴェネツィアの喉に手をかけることになる、と書いた。マラッカを押さえれば、香料の流れの根元を握れるという見通しだった。

ポルトガルのやり方は、広い領土を手に入れることではなかった。海の要所に砦を置き、そこを通る船を管理する。東アフリカのモザンビーク、インドのゴア、ペルシア湾の入口のホルムズ、そしてマラッカ。点を押さえて、海の道という線を握る。ポルトガルは「カルタス」と呼ばれる通行証を発行し、持たない船を拿捕した。それまでこの海では、港で税を払えば誰でも自由に航海できた。海そのものを通ることに料金を課すという考えを、外から来た者が持ち込んだ。

ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ(『リズアルテ・デ・アブレウの書』より)
ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ(『リズアルテ・デ・アブレウの書』より)Wikimedia Commons Lisuarte de Abreu · Public domain

だが、支配は思いどおりにはいかなかった。ムスリム商人たちはポルトガルの支配するマラッカを避け、スマトラ北端のアチェや、マラッカのスルタンの一族が南に開いたジョホール、ジャワのバンテンなど、別の港へ移っていった。交易の中心はいくつもの港に分かれ、ポルトガルはそれらの港と戦い続けることになった。香辛料の多くは、相変わらず紅海を通ってヴェネツィアにも届いた。

明は、朝貢国のマラッカがポルトガル人(彼らは仏郎機と呼んだ)に奪われたことを知って警戒を強め、ポルトガルとの正式な交易を長く拒んだ。ポルトガルが中国の南の港マカオに居住を認められるのは、40年あまりのちのことになる。

16世紀のポルトガルのキャラック船
16世紀のポルトガルのキャラック船Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

マラッカは、ポルトガルのアジアへの進出の足がかりになった。ここからポルトガル人は香料諸島へ、中国へ、そして日本へと船を進めた。のちに日本へキリスト教を伝えるフランシスコ・ザビエルも、マラッカを拠点に活動し、1547年にこの町で日本人のヤジロウと出会ったことが、日本行きのきっかけになった(ザビエルの来日)。

ポルトガルのマラッカは130年続いた。1641年、ジョホールと手を結んだオランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)が長い包囲の末に町を落とし、ポルトガルの時代は終わった。一つの港を押さえても、海そのものは押さえられない。そのことを、マラッカの130年は示している。

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