ジャック・カルティエ
概要
サン・マロの船乗り。3度セントローレンスへ行き、モントリオールの丘に登り、先住民の首長ドンナコナを連れ帰って死なせた。「カナダのダイヤモンド」は石英で、「カナダの金」は黄鉄鉱だった。故郷に帰って死んだ。
所属
フランス王国関わったできごと(1)
カルティエのセントローレンス川AD1535年 · 船長本文
ジャック・カルティエは1491年、ブルターニュの港町サン・マロに生まれた。誕生日は12月31日と伝えられるが、確かな記録ではない。サン・マロは私掠船と漁船の町で、少年のころから海に出る者が多かった。1520年、市の有力者の娘カトリーヌ・デ・グランシュと結婚したが、子はなかった。若いころにブラジルやニューファンドランドへ行った経験があったとも言われ、1524年のヴェラッツァーノの北米航海に加わっていたという説もあるが、どちらも確かめられていない。

転機は1532年に来た。国王フランソワ1世がモン・サン・ミシェルに巡礼したとき、修道院長ジャン・ル・ヴヌールが、新大陸の先まで行ける船乗りとしてカルティエを王に推したとされる。スペインとポルトガルが新大陸の富を分け合うなか、フランスも黄金とアジアへの近道を求めていた。
1534年、カルティエは2隻で大西洋を渡り、ニューファンドランドを回ってセントローレンス湾に入った。ガスペ半島に十字架を立て、そこで出会ったスタダコナ(いまのケベック市あたり)の首長ドンナコナの息子二人を連れ帰った。翌1535年の二度目の航海では、この二人の案内でカルティエのセントローレンス川をさかのぼった。スタダコナを過ぎ、さらに上流のオシュラガの村まで行き、村の背後の丘に登って「モン・ロワイヤル」と名づけた。これがモントリオールの名の起こりである。「カナダ」という語も、イロコイ系の言葉で「村」を意味する語をカルティエが土地の名として書き留めたものとされる。なお「ケベック」の名は、1608年にサミュエル・ド・シャンプランが付けたもので、アルゴンキン系の言葉で「川が狭くなる所」を意味する。

その冬、一行はスタダコナの近くで凍りついた川に閉じ込められ、壊血病で25人ほどが死んだ。先住民が針葉樹の葉と樹皮を煎じた飲み物を教え、残りは助かった。1536年の春、カルティエはドンナコナら10人ほどを連れてフランスへ帰った。ドンナコナは、さらに奥地に金やルビーに富む「サグネ王国」があると語り、カルティエはそれを王に伝え、ドンナコナ自身にも王の前で語らせた。ドンナコナは洗礼を受け、1539年ごろフランスで死んだ。故郷へ戻った者はいなかったとされる。サグネ王国は、どこにもなかった。
1541年、三度目の航海は植民を目的とした大がかりなものになった。全体の指揮はプロテスタントの貴族ロベルヴァルに任され、カルティエはその下に置かれた。準備の遅れたロベルヴァルを待たず、カルティエは先に出航し、スタダコナの上流カプ・ルージュにシャルルブール・ロワイヤルという拠点を築いた。だが、連れ去られた首長の消息を知るスタダコナの人びととの関係は悪化し、冬のあいだに入植者が襲われ、35人ほどが殺されたと伝えられる。1542年6月、カルティエは引き揚げを決め、ニューファンドランドでようやく到着したロベルヴァルと出会った。戻れと命じられたが、夜のうちに錨を上げて帰国した。

持ち帰った「金」と「ダイヤモンド」は、調べてみると黄鉄鉱と石英だった。「カナダのダイヤモンドのように偽物」という言い回しがフランス語に残ったほどである。命令に背いたカルティエが罰せられた記録はないが、王は以後の遠征をやめ、ロベルヴァルの植民地も翌年には放棄された。フランスがこの地に本格的に戻ってくるのは、半世紀以上のちのシャンプランの時代である。シャルルブール・ロワイヤルの跡は2005年にケベック市で見つかり、炭化した木材や先住民の土器、イタリア製の陶器が出土した。
晩年のカルティエは、サン・マロ近郊リモワルーの屋敷に住み、町の名士として洗礼の代父を何度も務めた。1557年9月1日、町で流行した疫病で死んだとされる。65歳だった。サン・マロの大聖堂に葬られている。

カルティエは先住民を連れ去り、ありもしない王国の話を広め、植民にも失敗した。それでも、セントローレンス川を内陸の奥まで記録した最初のヨーロッパ人であり、「カナダ」の名を地図に載せた人物として、のちのフランス系カナダ人から祖とされた。いまもケベック市には、石英の結晶が見つかった崖が「ダイヤモンド岬」の名で残り、その上に古い町並みが広がっている。カルティエより前にカボットのニューファンドランド到達があり、のちにはヘンリー・ハドソンが北の水路を探して命を落とした。アジアへ抜ける道を求めた北の航海の系譜の中で、カルティエは大河をさかのぼって大陸の奥へ入り込んだ人だった。