人物

エルナン・コルテス

Hernán Cortés
AD1485年 – AD1547年12月2日(享年62・推定)
スペイン重要度 4

概要

数百人でアステカを崩した。決め手は武器よりも、現地の反アステカ勢力と持ち込まれた疫病だった。

関わったできごと(1)

テノチティトランの陥落AD1521年 · スペイン側 · 総指揮

本文

エルナン・コルテスは1485年ごろ、スペイン西部のエストレマドゥーラ地方の町メデジンに、下級貴族の家の子として生まれた。この地方は貧しい土地で、のちにインカを征服するフランシスコ・ピサロも同じ地方の出である。コルテスはサラマンカで2年ほど学んだとされ、ラテン語と法律の知識を身につけたが、学業を終えずに故郷へ戻った。コロンブスの航海から12年後の1504年、19歳ほどで大西洋を渡り、カリブ海のイスパニョーラ島に着いた。

エルナン・コルテスの肖像
エルナン・コルテスの肖像Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

1511年、ディエゴ・ベラスケスによるキューバの征服に加わり、その功で土地と先住民の労働力を与えられた。ベラスケスはキューバの総督となり、コルテスはその秘書や町の役人を務めた。両者の仲は良かったり悪かったりで、ベラスケスの身内の女性との結婚をめぐって、コルテスが一時捕えられたこともある。

1518年、ベラスケスは、西の大陸の沿岸を探る遠征の指揮をコルテスに任せた。だが、コルテスの野心に気づいたのか、出発の直前に任命を取り消そうとした。コルテスはそれを察して、準備も十分でないまま船を出した。1519年2月、11隻の船に500人ほどの兵、16頭の馬、わずかな大砲を積んで、ユカタン半島へ向かった。

アメリカ大陸の古地図
アメリカ大陸の古地図Wikimedia Commons Public domain

ユカタンの沖の島で、コルテスは、8年前に難破してマヤの人々の間で暮らし、マヤ語を覚えていたスペイン人の修道士を仲間に加えた。続いてメキシコ湾岸のタバスコで戦いに勝つと、土地の首長たちから贈られた20人の女性の中に、ナワトル語とマヤ語の両方を話す若い女性がいた。のちにマリンチェ、あるいはドニャ・マリナと呼ばれる人である(マリンチェ)。ナワトル語をマリンチェがマヤ語に直し、それを修道士がスペイン語に直す。この二重の通訳を通して、コルテスは内陸の大国アステカのことを知り、やがてマリンチェ自身がスペイン語を覚えて、交渉の要となっていく。

湾岸に上陸したコルテスは、ベラクルスという町を作り、その町の役人たちに自分を指揮官に選ばせた。ベラスケスの部下としてではなく、国王に直接仕える者として行動するための、法律の知識を使った工夫だった。そのうえで、キューバへ戻ろうとする兵が出ないよう、船を浜に乗り上げさせて使えなくした。船を焼いた、と後に語られるようになるが、実際には沈めたり壊したりしたとされる。

エルナン・コルテス
エルナン・コルテスWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

内陸へ進むコルテスに、アステカに貢ぎ物を強いられていた町々が加わった。湾岸のトトナカ人の町センポアラ、そして激しく戦ったあとで手を結んだトラスカラである。1325年ごろのテノチティトランの建設から200年近く、湖の上に広げられてきたアステカの都に、コルテスは1519年11月、皇帝モクテスマ2世の出迎えを受けて入った。人口20万を超えたとも言われる都の大きさと美しさに、スペイン兵たちは夢の中の光景のようだと驚いた。コルテスはほどなく、皇帝を宮殿に閉じ込めて人質にとった。

1520年春、ベラスケスがコルテスを捕えるために送った大軍が湾岸に着いた。コルテスは都を部下に任せて湾岸へ急ぎ、夜襲でこれを破り、兵の多くを自分の側に取り込んだ。だがその留守に、都に残った部下が祭りに集まったアステカの貴族たちを襲って殺し、都の人々が立ち上がった。モクテスマはこの騒ぎの中で死んだ。誰に殺されたのかは、スペインの側とアステカの側の記録で食い違う。6月の末の夜、スペイン人とその味方は湖の堤の道を通って都から逃げ出し、多くが殺され、あるいは金を抱えたまま湖に沈んだ。悲しき夜と呼ばれる。

ここで、思いがけないものが戦いを変えた。湾岸に来た軍の中に天然痘にかかった者がいて、病がメキシコの中部に広がったのである(天然痘のアメリカ大陸上陸)。この病を知らなかった人々は次々に倒れ、モクテスマの後を継いだ皇帝も死んだ。トラスカラで態勢を立て直したコルテスは、小さな帆船を13隻造らせて湖に浮かべ、何万というトラスカラなどの兵とともに都を囲んだ。水と食料を断たれ、病に苦しんだ都は、数か月の戦いの末、1521年8月に落ちた(テノチティトランの陥落)。最後の皇帝クアウテモックは捕えられた。

テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
テノチティトランの陥落Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

数百人のスペイン人が大国を倒せた理由として、鉄の武器や馬、鉄砲を挙げる人は多い。だが、それだけでは足りない。アステカに恨みを持つ町々の何万という兵、病による人口の激減、そしてマリンチェの言葉の力が、勝敗を分けたと考えられている。アステカの人々がコルテスを帰ってきた神ケツァルコアトルと思い込んだ、という有名な話は、征服から後に作られたものではないかと疑う研究者が多い。

カール5世はコルテスをヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)の総督に任じた。コルテスは国王に宛てて長い報告の手紙を書き送り、自分の手柄を詳しく伝えている。だが、まもなく中米のホンジュラスへの遠征に出て、連れていったクアウテモックを、謀反を企てたとして途中で処刑した。2年近い留守の間に、メキシコでは彼の敵が力を得ていた。1528年、スペインに戻ったコルテスは、国王から侯爵の位と広大な領地を与えられたが、新しい国を治める副王の地位は与えられなかった。王室は、征服者が独立した支配者になることを恐れたのである。

ヴァイディッツの『衣装図鑑』に描かれたエルナン・コルテス
ヴァイディッツの『衣装図鑑』に描かれたエルナン・コルテスWikimedia Commons Christoph Weiditz the Elder · Public domain

メキシコに戻ったコルテスは、太平洋の探検に乗り出し、カリフォルニア半島に至った。半島とメキシコ本土の間の海は、いまもコルテス海と呼ばれる。晩年はスペインに戻り、国王の北アフリカ遠征に加わったが、宮廷では冷たくあしらわれ、訴訟に追われた。1547年12月、セビリアの近くで62歳ほどで死んだ。遺骨はのちにメキシコへ運ばれたが、独立のあとの反スペインの空気の中で隠され、20世紀の半ばに再び見つかった。

メキシコでは、コルテスは長く侵略者の象徴とされ、その像を公の場に立てることも避けられてきた。マリンチェとの間に生まれた息子マルティンは、スペイン人と先住民の血を引くメスティーソの最初の一人として語られる。征服から500年たったいまも、その子孫の国で、コルテスをどう記憶するかは定まっていない。

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