アメリゴ・ヴェスプッチ
概要
コロンブスが着いた陸を、アジアではなく誰も知らなかった大陸だと書いた。1507年の世界地図が、その名を新しい陸に付ける。
関わったできごと(1)
「新大陸」という認識AD1507年(ヴァルトゼーミュラーの地図) · その手紙が根拠になった本文
アメリゴ・ヴェスプッチは1454年3月9日、フィレンツェに生まれた。家は代々公証人を務める中流の家で、メディチ家とつながりがあった。叔父のジョルジョ・アントニオはドミニコ会の修道士で人文主義の学者でもあり、アメリゴはこの叔父からラテン語や天文学、地理学の手ほどきを受けた。若いころは、パリに赴く外交使節の一員だったこともある。

アメリゴは、メディチ家の分家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕え、その商売を任されるようになった。1490年代のはじめ、主家の取引の代理人としてスペインのセビリアに移る。セビリアはアフリカや大西洋の島々との交易の拠点で、フィレンツェの商人たちが船の艤装や物資の手配を請け負っていた。アメリゴが働いた商会は、コロンブスの航海の準備にも関わっていた(コロンブスの到達)。こうしてアメリゴは、コロンブスとも知り合いになった。
40代の半ばになって、アメリゴは自ら海に出た。何度航海したのかは、はっきりしない。のちに出回った手紙では4度とされているが、そのうち確かなのは2度とみる研究者が多い。

1499年、アメリゴはスペインの航海者オヘダの船団に加わり、南アメリカの北の海岸へ向かった。いまのベネズエラのあたりで、杭の上に建つ先住民の家々を見て、その地を水の都ヴェネツィアになぞらえた、という話がある。ベネズエラ(小さなヴェネツィア)という名の由来とされるが、誰が名づけたかには諸説ある。
1501年、アメリゴは今度はポルトガルの船団に乗った。前年、ポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルがインドへ向かう途中で南の大きな陸地に行き当たっていた(カブラルのブラジル到達)。アメリゴの船団はその海岸を、南へ、さらに南へとたどった。海岸はどこまでも続き、赤道をはるかに越えても終わらなかった。夜空には、北の空では見えない星々が輝いていた。

この航海のあと、アメリゴがフィレンツェのロレンツォに宛てた手紙が、1503年ごろ、ラテン語に訳されて『新世界』という題で刷られた。そこには、この陸地はアジアの一部ではなく、古代の人びとが知らなかった新しい世界と呼ぶべきだ、という趣旨のことが書かれていた。コロンブスは、自分が着いたのはアジアの東の端だと、死ぬまで考えていた。アメリゴの手紙は、それとは違う見方を、ヨーロッパの読者に示したのである。冊子はたちまち各国語に訳され、何十もの版を重ねた。
ただ、刷られた手紙がそのままアメリゴの文章かどうかは疑わしい。印刷業者が話をふくらませたり、他人の書いたものが混じったりしているとみられ、とりわけ4度の航海を語る別の手紙は、真贋がいまも論じられている。アメリゴが自分の手で書いた手紙の写しも残っているが、そちらはずっと控えめである。

1507年、いまのフランス東部、当時はロレーヌ公国の町サン・ディエで、ドイツの地図製作者ヴァルトゼーミュラーらが、12枚つなぎの大きな世界地図と、その解説書を刷った(「新大陸」という認識)。地図には大西洋の西に細長い陸地が描かれ、その南の部分に「アメリカ」と記されていた。解説書は、この第四の大陸を見出したアメリクス(アメリゴのラテン語名)にちなんで名づける、ヨーロッパもアジアも女性の名から取られているのだから、と説明した。アメリゴ自身がこの名づけに関わった形跡はなく、地図を見たかどうかも分からない。ヴァルトゼーミュラー自身は、後の地図ではこの名を使わなかった。それでも、刷られて広まった名前は、取り消すことができなかった。
アメリゴはセビリアに戻り、1505年にスペインの国籍を得た。1508年には、新たに設けられた航海士長の職に任じられた。大西洋へ向かう航海士たちを試験して免状を出し、新しく得られた航路の知識を一つの海図にまとめる役目である。コロンブスは晩年、息子への手紙で、アメリゴを誠実な人と書いている。二人のあいだに争いがあったという記録は無い。

1512年2月22日、アメリゴはセビリアで死んだ。57歳だった。新大陸に名を盗んだ男、と後世にそしられたこともある。だが名をつけたのは本人ではなかった。そこが知られていない大陸だと言ったことが、地図を作る人びとの心をとらえたのだった。『サピエンス全史』は、自分たちが知らない、と認めることが近代の科学と探検を動かした、という例としてアメリゴを取り上げている(物語「『サピエンス全史』で読む歴史」)。南北の大陸は、いまもその名で呼ばれている(コロンブス交換)。