マルセイユのペスト
概要
レバノンから来た船が検疫を短縮された。商人が絹を早く売りたかった。2年で街の半分、5万人が死んだ。周りの州は壁を築いて閉じ込め、越えた者は死刑。西ヨーロッパで最後の大きなペスト。壁はいまも山の中に残っている。
場所
43.30°N 5.37°E · フランス
本文
18世紀のはじめ、マルセイユはフランスの地中海の玄関だった。東地中海のオスマン帝国の港との交易は、王の許しによってほぼこの港に限られ、レバント地方の絹や綿がここから国じゅうへ運ばれた。東から来る船がペストを持ち込む危険はよく知られていて、マルセイユには沖の島と港の外れに、船と荷と人を一定の日数とどめておく検疫の施設が備わっていた。ラグーサの検疫から始まった仕組みは、港町の決まりとして根付いていた。ヨーロッパの西の側では、黒死病以来たびたび繰り返されたペストの大流行も、1665年のロンドンを最後に遠のいていた。
1720年5月25日、商船グラン・サン・タントワーヌ号が、レバノンのシドンなどの港をめぐってマルセイユに着いた。積み荷は絹や綿の布で、航海の途中で乗客と乗組員が次々に死んでいた。船長は死者を別の病のせいだと届け出た。船も荷も検疫の場に入れられたが、荷の一部は市の助役の一人で商人のジャン・バティスト・エステルのものだったとされる。7月には南フランスのボーケールで大きな市が開かれ、そこで絹を売れば大きな利益になる。検疫の期間は短くされ、荷は市の中へ出された。この経緯が、のちにマルセイユの人々に長く語られることになった。
6月の末、港に近い貧しい地区で最初の死者が出た。医師の中にはペストだと見抜く者もいたが、市は商いが止まることを恐れて、はじめは別の熱病だと言い張った。7月に入ると死者は街の中へ広がり、8月には一日に千人を超える日があった。墓掘りが足りず、死体は通りに積まれたまま腐っていった。市はガレー船の漕ぎ手として繋がれていた囚人を集め、死体を運ばせた。囚人たちも次々に感染して死んだ。
逃げられる者は逃げた。医師や役人の多くも街を去った。そのなかで、司教のベルザンスは街に残り、病人のあいだを回って秘跡を授け、食べ物を配ったことで知られる。騎士ニコラ・ローズは、海辺の広場に放置されていた千を超える遺体を、囚人を指揮して古い要塞の穴に投げ入れさせ、石灰で覆った。市長と助役たちも、物資の手配に追われた。秋になって死者はようやく減ったが、1722年の春に再び流行が起き、収まったのはその年の夏の終わりだった。

マルセイユではおよそ9万人の人口のうち、4万から5万人が死んだとされる。病は内陸へも広がり、エクスやトゥーロン、アルルなどプロヴァンスの町々で、合わせて十万人を超える死者が出た。プロヴァンスを管轄するエクスの高等法院は、マルセイユの人と交わることを死刑をもって禁じ、街の周りには兵が立った。問題の船は、沖の島に引き出されて焼かれた。
1721年には、教皇の領地だったアヴィニョンとその周りのコンタ・ヴネサンを守るため、ヴォクリューズの山地に石を積んだ壁が築かれた。のちに「ペストの壁」と呼ばれるもので、長さは27キロほどあり、見張りの小屋が並び、兵が越える者を見張った。それでも病は壁の向こうへ入り、アヴィニョンでも多くの人が死んだ。壁の一部は、いまも山の中の林に崩れながら残り、歩いてたどることができる。

マルセイユの流行は、西ヨーロッパで最後の大きなペストとなった。なぜその後、西ヨーロッパでペストの大流行が起きなくなったのかは、はっきりしていない。検疫の仕組みが整ったこと、家が石や煉瓦で建てられるようになったこと、ネズミの種類が入れ替わったことなどが挙げられるが、どれも決め手にはなっていない。そもそも、ペストが菌によって起こり、ネズミとノミがそれを運ぶことが分かったのは、170年あまり後の第三次ペスト大流行のときで、マルセイユの人々は、何がうつしているのかを知らないまま、隔離と壁で病と戦っていた。
病がどこから来たのかについても、新しい見方が出ている。2016年、マルセイユの修道院の墓から見つかった犠牲者の歯から、ペスト菌の遺伝子が読み取られた。その菌は、14世紀の黒死病の菌から枝分かれし、何世紀ものあいだヨーロッパかその近くに潜んでいた系統に属していた。船が東から持ち込んだという言い伝えとは、すぐには結び付かない結果だった。もっとも、その系統が当時どこにいたのかはまだ分かっておらず、船が運んできた可能性が消えたわけではない。

マルセイユの人々は、この流行を三百年のあいだ忘れなかった。司教ベルザンスが街を聖心に捧げた誓いにちなむ祈りの行事は、いまも続いている。画家ミシェル・セールが、死体の積まれた通りと、そこに立つ司教や騎士を描いた大きな絵は、マルセイユの美術館に残されている。荷を早く売りたかった商人たちの判断が街の半分を死なせた、という語りは、事実の細部に不確かなところを残しながらも、検疫を急ぐことの怖さを伝える話として、繰り返し語られてきた。