できごと

マルセイユのペスト

Great Plague of Marseille
AD1720年
重要度 3
マルセイユのペストに関わる図版:Chevalier Roze à la Tourette - 1720
Chevalier Roze à la Tourette - 1720 Wikimedia Commons Michel Serre · Public domain

概要

レバノンから来た船が検疫を短縮された。商人が絹を早く売りたかった。2年で街の半分、5万人が死んだ。周りの州は壁を築いて閉じ込め、越えた者は死刑。西ヨーロッパで最後の大きなペスト。壁はいまも山の中に残っている。

場所

マルセイユ
43.30°N 5.37°E · フランス

本文

18世紀のはじめ、マルセイユはフランスの地中海の玄関だった。東地中海のオスマン帝国の港との交易は、王の許しによってほぼこの港に限られ、レバント地方の絹や綿がここから国じゅうへ運ばれた。東から来る船がペストを持ち込む危険はよく知られていて、マルセイユには沖の島と港の外れに、船と荷と人を一定の日数とどめておく検疫の施設が備わっていた。ラグーサの検疫から始まった仕組みは、港町の決まりとして根付いていた。ヨーロッパの西の側では、黒死病以来たびたび繰り返されたペストの大流行も、1665年のロンドンを最後に遠のいていた。

1720年5月25日、商船グラン・サン・タントワーヌ号が、レバノンのシドンなどの港をめぐってマルセイユに着いた。積み荷は絹や綿の布で、航海の途中で乗客と乗組員が次々に死んでいた。船長は死者を別の病のせいだと届け出た。船も荷も検疫の場に入れられたが、荷の一部は市の助役の一人で商人のジャン・バティスト・エステルのものだったとされる。7月には南フランスのボーケールで大きな市が開かれ、そこで絹を売れば大きな利益になる。検疫の期間は短くされ、荷は市の中へ出された。この経緯が、のちにマルセイユの人々に長く語られることになった。

17世紀に作られたフリウリ諸島を含むマルセイユ湾の地図。
17世紀に作られたフリウリ諸島を含むマルセイユ湾の地図。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

6月の末、港に近い貧しい地区で最初の死者が出た。医師の中にはペストだと見抜く者もいたが、市は商いが止まることを恐れて、はじめは別の熱病だと言い張った。7月に入ると死者は街の中へ広がり、8月には一日に千人を超える日があった。墓掘りが足りず、死体は通りに積まれたまま腐っていった。市はガレー船の漕ぎ手として繋がれていた囚人を集め、死体を運ばせた。囚人たちも次々に感染して死んだ。

逃げられる者は逃げた。医師や役人の多くも街を去った。そのなかで、司教のベルザンスは街に残り、病人のあいだを回って秘跡を授け、食べ物を配ったことで知られる。騎士ニコラ・ローズは、海辺の広場に放置されていた千を超える遺体を、囚人を指揮して古い要塞の穴に投げ入れさせ、石灰で覆った。市長と助役たちも、物資の手配に追われた。秋になって死者はようやく減ったが、1722年の春に再び流行が起き、収まったのはその年の夏の終わりだった。

1720年、ペストによる遺体の撤去に関する公示。以下本文の翻訳:公告。 遺体の搬出および埋葬は何よりも必要とされている作業であり、市参事会は、当市の志ある市民の皆様に対し、名乗り出て馬に乗り、現場に立ち会うことにより、遺体の搬出および埋葬に力を貸していただくよう懇願する。そのような名誉ある行動、これほど重大な事態において郷土に奉仕することで名誉する名声に加え、市参事会は望む人に報酬を与え、志ある人
1720年、ペストによる遺体の撤去に関する公示。以下本文の翻訳:公告。 遺体の搬出および埋葬は何よりも必要とされている作業であり、市参事会は、当市の志ある市民の皆様に対し、名乗り出て馬に乗り、現場に立ち会うことにより、遺体の搬出および埋葬に力を貸していただくよう懇願する。そのような名誉ある行動、これほど重大な事態において郷土に奉仕することで名誉する名声に加え、市参事会は望む人に報酬を与え、志ある人Wikimedia Commons The original uploader was Christophe.moustier at French Wikipedia . · Public domain

マルセイユではおよそ9万人の人口のうち、4万から5万人が死んだとされる。病は内陸へも広がり、エクスやトゥーロン、アルルなどプロヴァンスの町々で、合わせて十万人を超える死者が出た。プロヴァンスを管轄するエクスの高等法院は、マルセイユの人と交わることを死刑をもって禁じ、街の周りには兵が立った。問題の船は、沖の島に引き出されて焼かれた。

1721年には、教皇の領地だったアヴィニョンとその周りのコンタ・ヴネサンを守るため、ヴォクリューズの山地に石を積んだ壁が築かれた。のちに「ペストの壁」と呼ばれるもので、長さは27キロほどあり、見張りの小屋が並び、兵が越える者を見張った。それでも病は壁の向こうへ入り、アヴィニョンでも多くの人が死んだ。壁の一部は、いまも山の中の林に崩れながら残り、歩いてたどることができる。

マルセイユの疫病におけるベルザンス司教、フランソワ・ジェラール作、1834年、マルセイユ美術館。
マルセイユの疫病におけるベルザンス司教、フランソワ・ジェラール作、1834年、マルセイユ美術館。Wikimedia Commons François Gérard · Public domain

マルセイユの流行は、西ヨーロッパで最後の大きなペストとなった。なぜその後、西ヨーロッパでペストの大流行が起きなくなったのかは、はっきりしていない。検疫の仕組みが整ったこと、家が石や煉瓦で建てられるようになったこと、ネズミの種類が入れ替わったことなどが挙げられるが、どれも決め手にはなっていない。そもそも、ペストが菌によって起こり、ネズミとノミがそれを運ぶことが分かったのは、170年あまり後の第三次ペスト大流行のときで、マルセイユの人々は、何がうつしているのかを知らないまま、隔離と壁で病と戦っていた。

病がどこから来たのかについても、新しい見方が出ている。2016年、マルセイユの修道院の墓から見つかった犠牲者の歯から、ペスト菌の遺伝子が読み取られた。その菌は、14世紀の黒死病の菌から枝分かれし、何世紀ものあいだヨーロッパかその近くに潜んでいた系統に属していた。船が東から持ち込んだという言い伝えとは、すぐには結び付かない結果だった。もっとも、その系統が当時どこにいたのかはまだ分かっておらず、船が運んできた可能性が消えたわけではない。

ベルサンス通りの眺めミシェル・セール作、キャンバスに油彩。1721年。
ベルサンス通りの眺めミシェル・セール作、キャンバスに油彩。1721年。Wikimedia Commons Michel Serre · Public domain

マルセイユの人々は、この流行を三百年のあいだ忘れなかった。司教ベルザンスが街を聖心に捧げた誓いにちなむ祈りの行事は、いまも続いている。画家ミシェル・セールが、死体の積まれた通りと、そこに立つ司教や騎士を描いた大きな絵は、マルセイユの美術館に残されている。荷を早く売りたかった商人たちの判断が街の半分を死なせた、という語りは、事実の細部に不確かなところを残しながらも、検疫を急ぐことの怖さを伝える話として、繰り返し語られてきた。

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