できごと

第三次ペスト大流行

Third plague pandemic
1894年 – 1959年
期間を持つできごと重要度 4
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国オランダ領東インドスペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)アフガニスタン日本パプアニューギニアマラヤ安南朝鮮王朝フィリピンフランス領インドシナネパール中央アジアの諸ハン国セイロン1894年香港
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1894年の版図を描いています(18勢力)。

概要

雲南から広州、香港へ出て、蒸気船で世界に広がった。香港でイェルサンと北里が菌を見つけ、黒死病の正体が1500年後にようやく分かる。

場所

香港
22.32°N 114.17°E · 中国・香港特別行政区

関わった人(1)

北里柴三郎AD1853年1月29日–AD1931年6月13日 · 香港で菌を探した

本文

ペストは、歴史上三度、世界規模で流行したとされる。6世紀のユスティニアヌスの疫病、14世紀の黒死病、そして19世紀の末に始まったこの第三の流行になる。

始まりは中国の南西、雲南の山地だった。この地域では18世紀からペストが繰り返し起きていたとされ、19世紀の半ばには、反乱と戦乱、鉱山の労働者や兵士の移動とともに流行が広がっていった。病はネズミのあいだで広がり、ネズミについたノミが人を刺してうつす。1894年、病は広東の大都市広州に達し、数万人が死んだ。広州と船で結ばれた香港に渡ったのは、その年の5月のことだった。

1899年のポルトのペスト流行時、リカルド・ジョルジェが分離したペスト菌の標本
1899年のポルトのペスト流行時、リカルド・ジョルジェが分離したペスト菌の標本Wikimedia Commons António Plácido da Costa (1848-1916) · Public domain

香港はイギリスの植民地で、世界の航路の要の港だった。流行は中国人の住む太平山の過密な住宅地で広がり、その年だけで2500人ほどが死んだ。植民地の政府は家々を捜索して患者を隔離し、住宅を焼き払った。強引なやり方に住民は反発し、多くが本土へ逃げた。

6月、二人の細菌学者が香港に着いた。日本政府が送った北里柴三郎は、ベルリンのロベルト・コッホのもとで破傷風菌の研究で名を上げた人だった。フランスのパストゥール研究所に学んだアレクサンドル・イェルサンは、ほぼ単身でやってきた。北里の一行が病院に迎えられて解剖の場を与えられたのに対し、イェルサンはそれを得られず、竹で建てた小屋を研究室にし、遺体を安置する兵士に金を払って死者のリンパ節を手に入れた、と伝えられる。

北里柴三郎(1910年)
北里柴三郎Wikimedia Commons 北里研究所 · Public domain

二人はほとんど同時に、ペストの原因となる菌を見つけたと報告した。ただ、北里の初期の報告には別の菌が混ざっていた可能性が指摘され、菌の性質をより正確に記したのはイェルサンのほうだった。のちに菌はイェルサンの名を取ってエルシニア・ペスティスと呼ばれる。北里の功績をどう評価するかは、長く議論されてきた。

病はどうやって人にうつるのか。1898年、フランスのポール=ルイ・シモンが、ネズミについたノミが運ぶという説を唱え、その後インドでの大規模な調査がそれを確かめた。こうして、黒死病の正体がほぼ分かった。過去の流行がすべて同じ病だったのかには議論が残ったが、21世紀に入って、中世の墓から掘り出した骨のDNAから、同じペスト菌が見つかっている。

立法会議事堂
立法会議事堂Wikimedia Commons Wing1990hk · CC BY 3.0

香港は蒸気船の港だった。病はネズミとノミとともに船に乗り、数年のうちに世界中の港へ届いた。1896年にはインドのボンベイ(いまのムンバイ)に入り、インドで最悪の被害を出す。1898年からの20年間で、インドの死者は1000万人を超えたと推計されている。イギリスの植民地政府は、患者の強制隔離や家宅捜索、移動の制限を行い、各地で住民の激しい反発と暴動を招いた。

1900年前後には、シドニー、サンフランシスコ、ホノルル、ブエノスアイレスなど、太平洋と大西洋の港町に病が上陸した。サンフランシスコやホノルルでは中国人の住む地区が封鎖され、ホノルルでは消毒のために火をつけた家から火が広がって、中国人街が焼けた。病への恐れは、移民への差別と結びついた(中国人排斥法)。日本でも1899年に神戸や大阪で流行が始まり、東京ではネズミを買い上げる対策がとられた。アメリカ西部では、ペスト菌が野生のリスなどの齧歯類に住みつき、いまも毎年わずかながら人の感染が出ている。

香港の人口ピラミッド
香港の人口ピラミッドWikimedia Commons The Central Intelligence Agency . · Public domain

20世紀に入ると、ネズミの駆除、ワクチン、のちには抗生物質によって、被害は少しずつ抑えられていった。世界の死者が年に200人を下回った1959年をもって、この大流行は終わったとされる。それでもペストは消えていない。アフリカのマダガスカルやコンゴ、南米などでは、いまも流行が起きている。

『疫病と世界史』は、病の正体と道筋が初めて分かった大流行として、この三度目の流行を扱った(物語「『疫病と世界史』で読む歴史」)。蒸気船と鉄道が病を速く遠くへ運び、同じ時代の科学がその仕組みを解き明かした。二つの近代が同時に現れた流行だった。

出典(1)

ウィリアム・H・マクニール(佐々木昭夫 訳) 『疫病と世界史』第6章 医学と医療組織の役割

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