第三次ペスト大流行
概要
雲南から広州、香港へ出て、蒸気船で世界に広がった。香港でイェルサンと北里が菌を見つけ、黒死病の正体が1500年後にようやく分かる。
場所
22.32°N 114.17°E · 中国・香港特別行政区
関わった人(1)
北里柴三郎AD1853年1月29日–AD1931年6月13日 · 香港で菌を探した本文
ペストは、歴史上三度、世界規模で流行したとされる。6世紀のユスティニアヌスの疫病、14世紀の黒死病、そして19世紀の末に始まったこの第三の流行になる。
始まりは中国の南西、雲南の山地だった。この地域では18世紀からペストが繰り返し起きていたとされ、19世紀の半ばには、反乱と戦乱、鉱山の労働者や兵士の移動とともに流行が広がっていった。病はネズミのあいだで広がり、ネズミについたノミが人を刺してうつす。1894年、病は広東の大都市広州に達し、数万人が死んだ。広州と船で結ばれた香港に渡ったのは、その年の5月のことだった。

香港はイギリスの植民地で、世界の航路の要の港だった。流行は中国人の住む太平山の過密な住宅地で広がり、その年だけで2500人ほどが死んだ。植民地の政府は家々を捜索して患者を隔離し、住宅を焼き払った。強引なやり方に住民は反発し、多くが本土へ逃げた。
6月、二人の細菌学者が香港に着いた。日本政府が送った北里柴三郎は、ベルリンのロベルト・コッホのもとで破傷風菌の研究で名を上げた人だった。フランスのパストゥール研究所に学んだアレクサンドル・イェルサンは、ほぼ単身でやってきた。北里の一行が病院に迎えられて解剖の場を与えられたのに対し、イェルサンはそれを得られず、竹で建てた小屋を研究室にし、遺体を安置する兵士に金を払って死者のリンパ節を手に入れた、と伝えられる。

二人はほとんど同時に、ペストの原因となる菌を見つけたと報告した。ただ、北里の初期の報告には別の菌が混ざっていた可能性が指摘され、菌の性質をより正確に記したのはイェルサンのほうだった。のちに菌はイェルサンの名を取ってエルシニア・ペスティスと呼ばれる。北里の功績をどう評価するかは、長く議論されてきた。
病はどうやって人にうつるのか。1898年、フランスのポール=ルイ・シモンが、ネズミについたノミが運ぶという説を唱え、その後インドでの大規模な調査がそれを確かめた。こうして、黒死病の正体がほぼ分かった。過去の流行がすべて同じ病だったのかには議論が残ったが、21世紀に入って、中世の墓から掘り出した骨のDNAから、同じペスト菌が見つかっている。

香港は蒸気船の港だった。病はネズミとノミとともに船に乗り、数年のうちに世界中の港へ届いた。1896年にはインドのボンベイ(いまのムンバイ)に入り、インドで最悪の被害を出す。1898年からの20年間で、インドの死者は1000万人を超えたと推計されている。イギリスの植民地政府は、患者の強制隔離や家宅捜索、移動の制限を行い、各地で住民の激しい反発と暴動を招いた。
1900年前後には、シドニー、サンフランシスコ、ホノルル、ブエノスアイレスなど、太平洋と大西洋の港町に病が上陸した。サンフランシスコやホノルルでは中国人の住む地区が封鎖され、ホノルルでは消毒のために火をつけた家から火が広がって、中国人街が焼けた。病への恐れは、移民への差別と結びついた(中国人排斥法)。日本でも1899年に神戸や大阪で流行が始まり、東京ではネズミを買い上げる対策がとられた。アメリカ西部では、ペスト菌が野生のリスなどの齧歯類に住みつき、いまも毎年わずかながら人の感染が出ている。

20世紀に入ると、ネズミの駆除、ワクチン、のちには抗生物質によって、被害は少しずつ抑えられていった。世界の死者が年に200人を下回った1959年をもって、この大流行は終わったとされる。それでもペストは消えていない。アフリカのマダガスカルやコンゴ、南米などでは、いまも流行が起きている。
『疫病と世界史』は、病の正体と道筋が初めて分かった大流行として、この三度目の流行を扱った(物語「『疫病と世界史』で読む歴史」)。蒸気船と鉄道が病を速く遠くへ運び、同じ時代の科学がその仕組みを解き明かした。二つの近代が同時に現れた流行だった。