インド大飢饉
概要
南インドを中心に、550万から1000万人が死んだとされる。同じ期間、インドから英国への穀物輸出は続いていた。救済の是非が、本国で経済学の議論として扱われた。
場所
13.08°N 80.27°E · インド・タミル・ナードゥ州(旧マドラス)
本文
1876年、インドの南部と西部で、夏の雨季の雨がほとんど降らなかった。翌1877年も雨は足りなかった。いまでは、太平洋の海水温が上がるエルニーニョ現象が強く出た年だったと考えられている。同じころ、中国の北部やブラジルの北東部でもひどい干ばつが起きた。中国の華北では1000万人前後、ブラジルでも数十万の人々が亡くなったとされる。
インドでは、マドラス管区(いまのチェンナイを中心とする地域)、ボンベイ管区の南部、マイソール、ハイデラバードなどが大きな被害を受けた。作物が枯れ、穀物の値段は何倍にも跳ね上がった。農民は牛を売り、家財を売り、やがて食べるものを求めて村を捨てた。死者は、当時の政府の見積もりで500万人台、後の研究では600万から1000万人に及ぶとする見方もある。飢えで体が弱ったところに、コレラやマラリアが襲った。

この時期、インドはイギリスの直接の統治下にあった。インド大反乱の後、1858年に東インド会社に代わって本国政府がインドを治めるようになっていた。副王(総督)のリットン卿は、1877年1月、デリーで盛大な式典を開き、ヴィクトリア女王がインド皇帝の位に就いたことを宣言した。飢饉のさなかに、豪華な祝宴が開かれたことになる。
政府の対応は、当時のイギリスで力を持っていた自由放任の経済の考え方に強く縛られていた。政府が穀物を買い入れて配れば、商人の取引を妨げ、人々を怠けさせる。市場に任せれば、値段の高い地域に穀物は自然に流れていく、という考えである。実際には、鉄道で結ばれた市場を通じて、穀物は飢えた村よりも高く買える場所へ運ばれた。この期間にも、インドからイギリスへの小麦の輸出は続いていた。30年前のアイルランドのジャガイモ飢饉でも、同じ考え方が政府の救済を縛り、被害を広げたと批判されていた。
政府が送り込んだリチャード・テンプル卿は、救済の費用を抑えることを任務とした。救済を受けたい者は、遠くの工事現場まで歩いて行って働かなければならず、その代わりに与えられる食料は、成人の男性で一日1ポンド(およそ450グラム)の穀物とわずかな金だった。「テンプルの賃金」と呼ばれたこの量は、重い労働をこなすには明らかに足りず、医師たちからも批判が出た。後の歴史家の中には、20世紀の強制収容所の配給と比べて、その少なさを指摘する者もいる。
飢饉の様子は、写真によっても伝えられた。骨と皮ばかりになった人々の写真は、イギリスの世論を揺さぶり、マドラスへの民間の義援金が集められた。ジャーナリストのウィリアム・ディグビーは、飢饉の実態と政府の対応を詳しく記録した本を書いた。

救済の現場では、政府の方針と食い違う動きもあった。マドラスの知事バッキンガム公は、配給の量を増やすべきだと主張し、テンプルの方針と対立した。救済の工事に集められた人々の間では死者が相次ぎ、救済所に行くより村で死ぬほうを選ぶ人々もいたと記録されている。飢饉が過ぎた後も、牛や種もみを失った農家の多くは借金を抱え、元の暮らしに戻れなかった。
飢饉の後、政府は飢饉委員会を作り、その報告をもとに、1880年代に各州で「飢饉法典」が定められた。飢饉の兆しをどう見つけ、いつ救済の工事を始め、どれだけの食料を配るかを、あらかじめ決めておくものである。しかしその後も、1896年から1900年にかけて、インドは再び大きな飢饉に見舞われた。
インドの知識人たちは、この飢饉を、天災だけでなく植民地支配がもたらした災いとして捉えた。ダーダーバーイー・ナオロージーは、インドの富が税や送金の形でイギリスに流れ出ていると論じ、これがインドを貧しくし、飢饉に弱くしていると訴えた。1885年に創立されたインド国民会議の創立は、こうした批判を一つの出発点にしている。雨が降らなかったことは自然の出来事だったが、それで何百万人が死ぬかどうかは、政策によって大きく変わった。経済学者アマルティア・センが、飢饉は食料の不足だけでなく、人々が食料を手に入れる力を失うことで起きると論じたのは、20世紀の後半のことである。