できごと

スマトラ沖地震と津波

Indian Ocean tsunami
AD2004年12月26日
重要度 4
スマトラ沖地震と津波に関わる図版:US Navy 050102-N-9593M-040 A village near the coast of Sumatra lays in ruin after the Tsunami that struck South East Asi
US Navy 050102-N-9593M-040 A village near the coast of Sumatra lays in ruin after the Tsunami that struck South East Asi Wikimedia Commons U.S. Navy photo by Photographer's Mate 2nd Class Philip A. McDaniel · Public domain

概要

マグニチュード9.1。インド洋の14か国で23万人が死んだ。アチェで17万人。警報の仕組みが無く、津波という言葉を知らない海岸で、水が引いたのを見に行った人が飲まれた。

場所

バンダ・アチェ
5.55°N 95.32°E · インドネシア・アチェ州

本文

インドネシアのスマトラ島の西の沖では、インド洋の海底をつくる板(プレート)が、島の載った板の下へ年に数センチずつ沈み込んでいる。大陸や海底が動くという考え(大陸は動く)が、板の動きとして確かめられたのは20世紀の後半である。二つの板が噛み合ったところには、長い年月をかけてひずみがたまる。2004年12月26日の朝7時58分、スマトラ島北西沖の海底の深さ30キロほどで、そのひずみが一気にはじけた。断層は北のアンダマン諸島の方へ1300キロ以上にわたって、8分から10分ほどかけて裂けていった。地震の規模はマグニチュード9.1から9.3とされ、観測が始まってから3番目前後の大きさだった。海底が数メートル持ち上がり、その上の海水がまるごと押し上げられて、津波になった。

最初に襲われたのは、震源に近いスマトラ島北端のアチェ州だった。揺れから15分から20分ほどで、州都バンダ・アチェの海岸に水が押し寄せた。津波の前に海が大きく引き、干上がった浜に魚を拾いに出た人もいた。高さ十数メートルの波が街を何キロも奥まで洗い、西海岸では30メートルを超える高さまで駆け上がった。インドネシアだけで死者・行方不明者は16万人を超え、その大半がアチェの人びとだった。

タイの海岸に押し寄せる津波
タイの海岸に押し寄せる津波Wikimedia Commons David Rydevik (email: david.rydevik gmail.com ), Stockholm, Sweden. · Public domain

津波はジェット機ほどの速さでインド洋を渡った。1時間半ほどでタイのアンダマン海の海岸に着き、プーケットやカオラックの浜辺の保養地をのみ込んだ。クリスマス休暇の外国人観光客が大勢いて、タイの死者5000人あまりのうち半数近くが外国人だった。スウェーデンは500人を超える国民を失っている。2時間ほどでスリランカとインドの東海岸に達し、スリランカでは3万5000人ほどが死んだ。長い内戦(スリランカ内戦)が続いていた北東部の海岸も、同じ波に洗われた。海沿いを走っていた列車が波にのまれ、1000人を超える乗客が亡くなった。インドでも1万人以上が死んだ。波はさらに7時間ほどかけてアフリカの東岸に届き、ソマリアでも100人を超える死者が出た。被害は14か国に及び、死者は合わせて23万人ほどとされる。

これほど死者が増えた理由の一つは、インド洋に津波の警報の仕組みがなかったことにある。太平洋には、各国が地震や潮位の情報を共有して津波を知らせる体制があった。ハワイの太平洋津波警報センターは地震を捉えたが、インド洋の国々には観測の網も、知らせを受けて住民に伝える窓口も無く、誰に連絡すればよいかもはっきりしなかった。津波が数時間後に着いた国々でさえ、海岸の人びとは何も知らされないまま波を迎えた。

2004年のスマトラ沖地震・津波後、ムラボーで瓦礫を捜索する男性
2004年のスマトラ沖地震・津波後、ムラボーで瓦礫を捜索する男性Wikimedia Commons Pfc. Nicholas T. Howes, USMC · Public domain

知識が命を救った例もある。プーケットの浜辺にいたイギリスの10歳の少女は、学校の地理の授業で習ったとおり海が泡立ちながら引いていくのを見て、津波が来ると母親に訴えた。浜にいた100人ほどが避難して助かったという。震源に近いインドネシアのシムルエ島では、1907年の津波の記憶が「スモン」という言葉と歌で語り継がれていた。揺れが来たら海が引くのを待たずに山へ逃げる。島の人口は7万人を超えていたが、死者は数人にとどまった。

津波は、ひとつの戦争も終わらせた。アチェでは1970年代から、独立を求める「自由アチェ運動」とインドネシア軍の戦いが続き、外国人の立ち入りは厳しく制限されていた。津波の後、世界中の救援団体と軍が入り、双方は戦いを続けられなくなった。フィンランドの元大統領アハティサーリの仲介で交渉が進み、2005年8月に和平の覚書が結ばれた。インドネシアではスハルトの退陣から民主化が進んでいたことも、交渉を後押しした。アチェは広い自治を得て、運動の指導者たちは選挙で州の政治に加わるようになった。

2004年のスマトラ沖地震による津波
2004年のスマトラ沖地震による津波Wikimedia Commons 2004-tsunami.jpg : David Rydevik (email: david.rydevik at gmail dot com), Stockholm, Sweden. derivative work: Wilfredor · Public domain

各国の政府と市民から寄せられた援助は百数十億ドルにのぼり、災害への支援としては史上最大級になった。インドネシアは復興のための専門の役所を作り、家や学校、道路を建て直した。一方で、援助の配り方の不公平や、海岸の土地が観光開発に回されるといった問題も起きた。2006年にはインド洋の津波警報の体制が動き始め、各国に観測の網と情報を伝える仕組みが整えられていった。

その7年後、2011年3月11日に東日本大震災と福島第一原発事故が起きた。日本には世界で最も整った警報の仕組みがあり、警報は地震の3分後に出された。それでも、2万人近い人が死者・行方不明者になった。仕組みを作るだけでは足りず、知らせを受けた一人ひとりが、すぐに高いところへ逃げることが要る。シムルエ島の人びとが100年前の記憶から学んだことを、警報の時代の私たちも学び直している。

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