安政のコレラ
概要
長崎に入港したアメリカの軍艦から広がり、夏の江戸で3万とも10万とも。「三日コロリ」。棺桶が足りず、火葬場が順番待ち。開港の年で、異国が持ち込んだ病として攘夷の理由になった。緒方洪庵が『虎狼痢治準』を書いた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
コレラは、ベンガル地方のガンジス川の下流で古くから続いてきた病である。コレラ菌に汚れた水や食べ物から口に入り、激しい下痢と吐き気で体の水分を一気に奪う。手当てが遅れれば、元気だった人が1日か2日で死ぬ。1817年、この病はインドから外へ広がり始め、交易と軍隊の動きに乗って、アジア、ヨーロッパ、アメリカへ何度も波のように押し寄せた。日本にも1822年(文政5年)、長崎から入って西日本で流行したが、このときは箱根を越えなかった。
1858年(安政5年)の夏、コレラはふたたび長崎に上陸した。上海から来たアメリカの軍艦ミシシッピ号の乗組員が持ち込んだと言われている。病は東へ進み、夏のうちに大坂、そして江戸に達した。
江戸の町は恐慌に陥った。朝に発病して夕方に死ぬ、という勢いで、人々は「三日コロリ」と呼んだ。コロリには、虎狼痢や狐狼狸といった字が当てられた。虎や狼、狐や狸に取りつかれたような恐ろしい病という感覚が、字に込められている。死者の数はよく分からない。3万人とも、10万人あるいはそれ以上とも言われ、記録によって大きく違う。棺桶が足りず、桶屋は昼夜休まず早桶を作り、小塚原や千住の火葬場には棺の列ができた。
人々は神仏にすがった。狐を追い払うために、秩父の三峯神社から狼の姿を描いた札を借りてきて戸口に貼り、獅子頭をかついで町を練り歩いた。疫病をもたらす神を送り出すための祭りが、あちこちで行われた。浮世絵師の歌川広重は、この年の9月に62歳で死んだ。コレラによる死だったと言われる。戯作者の仮名垣魯文らは、流行のありさまを書いた本を出し、江戸の惨状を今に伝えている。
この年は、日本の運命が大きく動いた年でもあった。7月、幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、横浜などの港を開くことを約束した。大老の井伊直弼は反対する者を厳しく取り締まり(安政の大獄)、尊王攘夷を唱える人々の怒りは高まった。そこへ異国の船から来た病が江戸を襲った。外国人が病を持ち込んだ、開港が死の病を連れてくる、という声が広がり、コレラは攘夷の主張に恐ろしい裏づけを与えた。5年前の黒船来航、3年前の安政江戸地震に続く災いだった。

医者たちも手をこまねいてはいなかった。大坂で適塾を開いていた蘭方医の緒方洪庵は、オランダの医学書3冊からコレラの記述を急いで訳してまとめ、『虎狼痢治準』として医者たちに配った。長崎では、オランダから来た軍医ポンペが、日本人の医者たちとともに患者を手当てした。だが当時の医学には、コレラを治す確かな方法はなかった。ロンドンの医者ジョン・スノウが、汚れた井戸の水が病を広めることを突き止めたのは、わずか4年前の1854年である(ジョン・スノウのコレラ地図)。その考えはヨーロッパでもまだ広く認められておらず、日本には届いていなかった。
コレラはその後も繰り返し日本を襲った。1862年(文久2年)には、麻疹と重なって江戸で大流行した。明治に入ると、1879年と1886年にはそれぞれ10万人を超える死者が出た。開国とともに、世界の病が日本に入ってくるようになったのである。
明治の政府は、この病と向き合う中で、近代の衛生の仕組みを作っていった。ヨーロッパの公衆衛生を学んだ長与専斎は、英語のハイジーンなどに当たる言葉として、中国の古典から「衛生」という語を選び、内務省の衛生局を率いた。港での検疫、患者の隔離、消毒、そして上水道と下水道の整備。1897年には伝染病予防法が定められた。安政のコレラは、海の向こうから来た病に、日本が初めて正面からさらされた夏だった。その恐怖が、近代の日本の町と暮らしの形を少しずつ変えていった。