人物

ジョナス・ソーク

Jonas Salk
AD1914年10月28日 – AD1995年6月23日(享年80)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

ニューヨークのユダヤ移民の子。ピッツバーグで不活化ワクチンを作り、自分と家族に打った。特許を取らず、「太陽に特許があるか」。サビンと生涯対立した。ラホヤにソーク研究所。晩年はHIVのワクチンを探した。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ソークのポリオワクチンAD1955年4月12日 · 開発

本文

ジョナス・ソークは、初めて実用化されたポリオ(小児まひ)のワクチンを作ったアメリカの医学者である。1955年、そのワクチンが有効だと発表された日、アメリカ中で教会の鐘が鳴らされ、ソークは一夜にして国民的な英雄になった。一方で、同じ分野の学者たちからは最後まで距離を置かれた。

アトランタの疾病対策センターを訪れたジョナス・ソーク(1988年)
アトランタの疾病対策センターを訪れたジョナス・ソーク(1988年)Wikimedia Commons CDC · Public domain

1914年、ニューヨークで生まれた。両親はロシア帝国から渡ってきたユダヤ系の移民で、正規の教育をほとんど受けていなかったが、息子たちの教育には熱心だった。ソークは成績優秀で、ニューヨーク市立大学を経てニューヨーク大学の医学部に進んだ。医師として患者を診るより、病気そのものを防ぐ研究をしたいと考え、臨床医の道を選ばなかった。

第二次世界大戦中、ソークはミシガン大学のトマス・フランシスのもとで、インフルエンザのワクチンの開発に加わった。軍の兵士を流行から守るための研究で、ここで、病原体を化学的に殺して、なお体に免疫を作らせる「不活化ワクチン」の技術を身につけた。

ジョナス・ソーク
ジョナス・ソークWikimedia Commons SAS Scandinavian Airlines · Public domain

1947年、ピッツバーグ大学に自分の研究室を得た。当時のアメリカでは、ポリオが夏ごとに流行し、親たちを恐れさせていた。とくに1952年には5万件を超える患者が報告され、多くの子どもが手足のまひを残し、呼吸の筋肉がまひした者は「鉄の肺」と呼ばれる人工呼吸の機械の中で暮らすことになった。自身もポリオで脚の自由を失ったフランクリン・ローズヴェルト大統領が設立した財団は、全国の人々から10セント硬貨を募る運動で集めた資金を研究に投じていた。ソークもその支援を受けた。

ソークはまず、財団の事業として、ポリオウイルスに三つの型があることを確かめる仕事に取り組んだ。同じころ、ハーヴァード大学のエンダースらが、ウイルスを試験管の中の細胞で育てる方法を開発していた。ソークはこの方法でウイルスを大量に育て、ホルマリンで殺して、三つの型すべてに効くワクチンを作った。1952年、彼はピッツバーグ近郊の施設の子どもたちにワクチンを打ち、抗体ができることを確かめた。翌年には、自分自身と妻、三人の息子にも接種した。

1954年、フランシスの指揮のもとで、180万人を超える子どもたちが参加する、前例のない規模の野外試験が行われた。結果が発表されたのは1955年4月12日、ローズヴェルトの死からちょうど10年の日だった。ワクチンは安全で有効だと告げられると、ニュースは全国を駆けめぐった(ソークのポリオワクチン)。その夜、テレビのインタビューで特許は誰が持つのかと聞かれたソークは、人々だと言っていいでしょう、特許はありません、太陽に特許をとれますか、と答えた。実際には、財団の弁護士たちが検討した結果、すでに知られた技術の組み合わせで特許を取るのは難しいと判断されていた、とも指摘されている。

ソークのポリオワクチンに関わる図版:Poliodrops
ソークのポリオワクチンWikimedia Commons USAID · Public domain

喜びの直後に事故が起きた。ある製薬会社が作ったワクチンの一部で、ウイルスが十分に殺されていなかったのである。これを打たれた子どもたちの中からポリオを発症する者が出て、まひが残った者や死者も出た。製造と検査の基準は厳しく見直され、接種は再開された。アメリカのポリオの患者は、数年のうちに急激に減っていった。

ソークの前に立ちはだかったのが、同じくポリオのワクチンを研究していたアルバート・サビンだった。サビンは、殺したウイルスではなく、毒性を弱めた生きたウイルスを口から飲ませるワクチンのほうが、免疫が長く続き、安く、注射も要らないと主張した。二人の対立は個人的な反感にまで発展し、生涯和解しなかった。1960年代になると、アメリカは安価で扱いやすいサビンの経口ワクチンに切り替えた。だが経口ワクチンには、ごくまれに弱めたウイルスが力を取り戻してまひを起こすという問題があり、2000年、アメリカは再び不活化ワクチンに戻った。いまは国や状況に応じて両方が使い分けられている。

ベン=グリオンとともにエルサレムを訪れたソーク(1959年)
ベン=グリオンとともにエルサレムを訪れたソーク(1959年)Wikimedia Commons Fritz Cohen · Public domain

1963年、ソークはカリフォルニアのラホヤに、自分の名を冠した研究所を開いた。建築家ルイス・カーンが設計した、太平洋に面した簡素なコンクリートの建物は、科学者と芸術家が出会う場所にしたいというソークの願いを形にしたもので、現代建築の名作に数えられている。1970年には、画家でピカソのかつての伴侶だったフランソワーズ・ジローと結婚した。晩年は人間と進化についての思索的な本を書き、1980年代の終わりからは、エイズの原因となるウイルスに対するワクチンの研究に取り組んだが、実を結ばなかった。

1995年6月23日、ラホヤで心不全のため死んだ。80歳。

ソークはノーベル賞を受けず、全米科学アカデミーの会員にも選ばれなかった。新しい原理を発見したのではなく、他人の技術を組み合わせて実用化したにすぎない、という見方が学者の間にあったためと言われる。一方、ウイルスの培養法を開発したエンダースたちは1954年にノーベル賞を受けている。それでも、ポリオの恐怖から人々を解放した名前として記憶されているのはソークである。COVID-19の世界的流行のワクチンをめぐって、特許をどこまで認めるべきかが世界で議論されたとき、太陽に特許をとれますか、という彼の言葉が繰り返し引用された。種痘を始めたエドワード・ジェンナーから、狂犬病のワクチンを経て、ワクチンの歴史の中で、最も多くの人に名を知られた研究者の一人である。

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