ジェンナーの種痘
概要
牛痘で天然痘を防げると確かめた。人類が病を根絶できると初めて示す。
場所
51.69°N -2.46°E · イギリス・イングランド・グロスターシャー
関わった人(1)
エドワード・ジェンナーAD1749年–AD1823年 · 当人本文
18世紀のヨーロッパで、天然痘は最も恐れられた病の一つだった。高い熱の後に全身に膿疱ができ、かかった人の何割かが死ぬ。生き延びても、顔にあばたが残り、目が見えなくなる者もいた。子どもの死の大きな原因でもあった。ただ、一度かかって治った人は二度とかからないことは、昔から知られていた。
そこで行われていたのが、人痘接種である(人痘接種)。天然痘の患者の膿をごく少量、健康な人の皮膚の傷に入れ、わざと軽くかからせる。中国やインド、オスマン帝国で行われていた方法で、1721年、オスマン帝国に駐在した大使の夫人メアリー・ウォートリー・モンタギューが、自分の子に受けさせてイギリスに広めた。死ぬ危険は自然にかかるよりずっと低かったが、それでも接種で死ぬ人が出たうえ、接種を受けた人から周りに天然痘がうつることもあった。

エドワード・ジェンナーは1749年、イングランド西部グロスターシャーのバークリーで牧師の家に生まれた。少年の頃には自分も人痘接種を受け、そのために何週間も隔離されて苦しんだ。外科医のもとで修業した後、ロンドンで高名な外科医ジョン・ハンターに学んだ。ハンターは、考えるより試してみよ、と教えた人である。ジェンナーは故郷に戻って田舎の医者になり、カッコウのひなが他の鳥の卵を巣から落とす習性を観察した論文で、王立協会の会員にも選ばれていた。
酪農の盛んなこの地方には、牛の乳房にできる牛痘という病気にかかった乳搾りの女性は、天然痘にかからない、という言い伝えがあった。牛痘は人にうつっても手に膿疱ができる程度の軽い病である。ジェンナーはこの言い伝えに関心を持ち、何年も事例を集めた。

1796年5月14日、ジェンナーは、牛痘にかかった乳搾りの女性サラ・ネルムズの手の膿疱から膿を取り、8歳の少年ジェームズ・フィップスの腕の傷に入れた。少年は庭師の息子だった。少年は軽い熱を出しただけで回復した。7月1日、ジェンナーは少年に天然痘の膿を接種した。少年は天然痘を発症しなかった。
健康な子どもに、効くかどうか分からないものを入れ、さらに天然痘の膿を入れて確かめる。いまの倫理では許されない実験である。ジェンナーはその後も、接種と確認を重ねた。王立協会に送った最初の報告は、証拠が足りないとして受け入れられず、1798年、彼は自費で小さな本を出版した。牛痘を意味するラテン語「ワリオラエ・ワッキナエ」から、この方法はワクチン接種と呼ばれるようになる。「ワクチン」は、ラテン語で牛を意味する「ワッカ」から来ている。

同じことを試した人は、ジェンナーより前にもいた。1774年、ドーセットの農夫ベンジャミン・ジェスティは、天然痘の流行の中で、妻と二人の息子に牛痘を植えたと伝えられる。だがジェスティはそれを記録に残して広めることはしなかった。ジェンナーの功績は、試したことに加えて、事例を集めて本にし、方法として世界に広めたことにある。
広まり方は速かった。数年のうちにヨーロッパ各地とアメリカで接種が始まった。牛痘の膿を遠くへ運ぶのは難しく、スペインは1803年、孤児の少年たちを船に乗せ、腕から腕へと次々に接種しながら大西洋を渡り、中南米とフィリピンに届けた。日本には1849年、オランダ船を通じて長崎に届き、緒方洪庵らが大坂に除痘館を開いて広めた。一方で反発もあった。牛の病を人の体に入れることを気味悪がる人は多く、接種を受けた人の体から牛が生えてくる風刺画まで描かれた。

なぜ効くのかは、当時まったく分からなかった。免疫という考え方も、病気が微生物によって起こるという知識もない時代である。80年あまり後、パスツールは、弱めた病原体で病気を防ぐ方法をジェンナーにちなんで「ワクチン」と呼び、他の病気にも広げた(狂犬病のワクチン)。なお、のちに天然痘の予防に使われたワクチンのウイルスは、遺伝子を調べると、牛痘のウイルスとは別のものだと分かっている。どこで入れ替わったのかは、はっきりしていない。
ジェンナーの方法は、180年あまり後に、病を一つ地上から消すことにつながった。世界保健機関は1967年から天然痘の根絶計画を進め、1980年に根絶を宣言した(天然痘の根絶宣言)。人の感染症を人類が完全に消し去ったのは、いまもこの一例だけである(家畜の病では牛疫の根絶がある)。