ヴェスヴィオ火山の噴火

概要
ポンペイとヘルクラネウムが埋まった。小プリニウスの書簡が当時の様子を伝える唯一の同時代記録。
場所
40.75°N 14.49°E · イタリア・カンパニア州
本文
紀元79年、ナポリ湾を見下ろすヴェスヴィオ山が噴火した。昼過ぎに噴煙が空高く上がり、翌日の朝までに、ふもとの町ポンペイとヘルクラネウムは、厚い火山灰と火砕流の下に消えた。日付は長く8月24日とされてきたが、近年は10月の下旬とする説が有力になっている。
ナポリ湾の沿岸は、ローマの富裕層が別荘を構える保養地だった。ポンペイは人口1万を超える地方の商業都市で、ヘルクラネウムはその北西にある小さな海辺の町だった。ヴェスヴィオは緑の斜面にぶどう畑が広がる山で、人々はそれが火山だとは思っていなかった。地理学者ストラボンは、山頂の岩が焼けたように見えることに気づき、昔は火を噴いたのではないかと書いていたが、それを恐れる者はいなかった。17年ほど前、ネロの治世の62年頃には、この一帯を大きな地震が襲い、ポンペイでは神殿や家々が壊れた。79年の時点でも、町のあちこちで修理が続いていた。

噴火の様子を伝える同時代の記録は、ただ一つしか残っていない。小プリニウスが、四半世紀ほど後に歴史家タキトゥスの求めに応じて書いた2通の手紙である。17歳だった彼は、湾の北西の端にある海軍の基地ミセヌムで、母と、伯父の大プリニウスの家に滞在していた。昼過ぎ、母が、見慣れない形の雲が湧き上がっていると知らせた。それは、まっすぐ高く伸びた幹の先で枝を広げる傘松の姿によく似ていた、と彼は書いている。白く見えるところもあれば、土や灰を含んで汚れたところもあった。
伯父の大プリニウスは、37巻の『博物誌』を書いた博物学者であり、ミセヌムに置かれた艦隊の司令官でもあった。この珍しい現象を近くで見ようと、軽い船の用意を命じた。そこへ、山のふもとに住む知人の女性から、助けを求める知らせが届く。学者の好奇心で始めたことを、彼は救助へと切り替え、大きな軍船を何隻も出して自ら対岸へ向かった。甥は勉強が残っていると言って、ついて行かなかった。

降ってくる灰はしだいに熱く濃くなり、軽石と焼けた石が船に落ちてきた。岸に近づけなくなった大プリニウスは、湾の南のスタビアエにいる友人の家に船を着け、怯える人々を落ち着かせるために、風呂に入り、食事をとり、眠ってみせたという。夜のうちに中庭は灰と軽石で埋まりかけ、地震で家が揺れた。翌朝、一行は枕を頭に縛りつけて落ちてくる石を防ぎながら浜へ出たが、海は荒れて船を出せなかった。大プリニウスはそこで倒れ、二度と起き上がらなかった。濃い煙を吸ったためと甥は書いているが、もともと持病があったとする見方もある。
噴火は、二つの段階で町を襲った。最初の段階では、噴煙の柱が成層圏に届くほど高く立ち上り、そこから軽石と灰が雨のように降った。風下にあったポンペイには、十数時間のうちに軽石が2メートル以上も降り積もり、屋根は重みで抜け落ちた。多くの住民は、この間に町を逃げ出したと考えられている。翌朝になると、噴煙の柱が自らの重みで崩れ、高温のガスと灰が山の斜面を時速100キロを超える速さで駆け下りた。火砕流である。ヘルクラネウムはこれに呑まれ、ポンペイにも残っていた人々を襲った。

ミセヌムの小プリニウスと母も、翌朝には逃げ出した。人々が群れをなして道を行き、母は自分を置いて行けと言ったが、彼は手を引いて歩いた。昼なのに、灯りを消した部屋のような闇が降りてきた。女の悲鳴、子どもの泣き声、男たちの叫び声が聞こえ、神々はもういない、この夜が世界の最後の夜だと言う者もいた、と彼は書いている。
その後の長いあいだ、二つの町は地中に眠った。18世紀、ナポリを治めたブルボン家のもとで発掘が始まり、まずヘルクラネウム、次いでポンペイが掘り出された。ヨーロッパの上流の若者が古典の地を巡るグランドツアーの目的地となり、出土品は新古典主義の流行を生んだ。

火山灰に埋もれたことで、ローマの町の日常が、そのままの形で残った。家々の壁画、居酒屋のカウンター、パン屋の窯と炭になったパン。壁には、選挙で誰それを推すという張り紙や、剣闘士の試合の告知、恋の言葉や他愛ない悪口の落書きが、何千と残っている。ヘルクラネウムの「パピルス荘」と呼ばれる別荘からは、炭のように焼け焦げた巻物が千本以上見つかり、開けば崩れるそれを、近年は画像の解析で開かずに読む試みが進んでいる。
19世紀、発掘を指揮したジュゼッペ・フィオレッリは、灰の中に人の形をした空洞があることに気づいた。遺体が腐って消えた跡である。そこに石膏を流し込む方法で、身をかがめ、顔を覆い、子を抱いたまま死んだ人々の最期の姿が復元された。ヘルクラネウムでは、20世紀の後半に海辺の舟小屋から300体を超える遺骨が見つかった。救いの船を待つうちに火砕流に襲われた人々と考えられている。二つの町の死者の総数は、まだ分かっていない。

日付の謎も、遺跡から出てきた。小プリニウスの手紙の写本には8月24日に当たる日付が書かれているが、写本によって数字が異なる。そのうえ遺跡からは、秋に実るざくろや栗、仕込みを終えたワインの壺、暖をとる火鉢が見つかっていた。2018年、ポンペイの家の壁に、10月中旬の日付を記した木炭の落書きが見つかった。木炭の文字は長くはもたないため、噴火の直前に書かれたと考えられ、10月説を強く後押しした。
噴火のあと、ティトゥス帝は被災地の復興のために元老院議員を送り、財を出した。同じティトゥス帝のもとで、翌80年にはコロッセウムの完成が祝われている。ヴェスヴィオはその後も噴火を繰り返し、1631年の大噴火では数千人が死に、最後の噴火は1944年だった。いまもふもとには数十万の人々が暮らしている。

小プリニウスの記述はとても正確で、高い噴煙の柱から軽石を降らせるこの型の噴火は、いまも彼の名を取って「プリニー式噴火」と呼ばれる。17歳の若者が伯父の死を悼み、その最期を正しく伝えようとして書いた手紙が、火山学の言葉になって残った。