できごと

梅毒の流行

Syphilis outbreak at Naples
AD1495年
重要度 4
キプチャク汗国モスクワ大公国白帳ハン国ティムール朝の諸侯国アラブ系の人びと白羊朝ティムール朝マムルーク朝ポーランド・リトアニア共和国オスマン帝国デンマーク=ノルウェーソンガイ帝国神聖ローマ帝国マリ帝国スウェーデンリトアニア大公国スペイン帝国サーミフランス王国Imperial Hungaryポーランド王国クリム・ハン国ザイヤーン朝カネム=ボルヌEnglandハンガリー王国ハドラマウトアラゴン王国ハフス朝リャザン公国Teutonic Knightsイエメンワッタース朝Funjポルトガル帝国マスカットヴェネツィア共和国ScottlandジョージアAD1495年ナポリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1495年の版図を描いています(39勢力)。

概要

フランス王シャルル8世がナポリを囲んだ軍の中で新しい病が出た。傭兵がヨーロッパ中に運んだ。フランスは「ナポリ病」、イタリアは「フランス病」と呼んだ。コロンブスの船員がアメリカから持ち帰ったという説と、前からあったという説が、いまも決着していない。

場所

ナポリ
40.85°N 14.27°E · イタリア

本文

1494年の夏、フランス王シャルル8世は、ナポリ王国の王位を受け継ぐ権利があると唱えて、大軍でアルプスを越えた。兵は2万5000とも3万ともいわれ、フランス人のほかにスイスやドイツの傭兵、各地から集まった兵が混じっていた。イタリア戦争と呼ばれる半世紀を超える争いの始まりである。フランス軍はイタリアの諸国をほとんど戦わずに通り抜け、1495年2月22日、ナポリに入った。

このナポリ滞在の前後から、兵の中に見たことのない病が広がった。陰部にできものができ、やがて全身に膿をもった発疹が出て、皮膚がただれ、骨がひどく痛んだ。病は顔の肉を崩し、多くの人を死なせた。当時の医者たちは、古い医学の書物のどこにもこの病が書かれていないことに戸惑った。のちの梅毒に比べて、初めの流行はずっと激しい病だったと記録されている。

梅毒の患者の治療を描いた最初期の医学挿画、ウィーン、1498年。
梅毒の患者の治療を描いた最初期の医学挿画、ウィーン、1498年。Wikimedia Commons Bartholomäus Steber · Public domain

その春、教皇、ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ皇帝が同盟を結んでフランスに立ち向かい、シャルルは急いで引き揚げた。7月、北イタリアのフォルノーヴォで同盟軍と戦って道を切り開き、フランスへ帰り着く。戦争が終わると傭兵たちは故郷へ散り、病を連れて帰った。1495年から翌年にかけてドイツ、フランス、スイスに、1497年にはイングランドやスコットランドにまで現れた。ポルトガルの航海者がインドに着いた1498年の少し後にはインドでも記録され、1505年ごろには中国の広東に達し、日本でも1512年ごろの記録があるとされる。わずか20年ほどで、病は世界を半周した。

病の名は、それぞれの国が隣の敵の名をつけた。フランスでは「ナポリの病」、イタリアやドイツ、イングランドでは「フランス病」、オランダでは「スペイン病」、ロシアでは「ポーランド病」と呼ばれた。中国では「楊梅瘡」と呼ばれ、日本ではこれが伝わって「唐瘡」「琉球瘡」とも呼ばれた。発疹が楊梅(ヤマモモ)の実に似ていたからとされ、「梅毒」という日本語の呼び名もここから来ている。いま世界で使われる「シフィリス」の名は、1530年、イタリアの医者フラカストロが書いたラテン語の詩から生まれた。太陽の神を怒らせた羊飼いシフィルスが、罰としてこの病にかかる話である。フラカストロはのちに、病は目に見えない小さな「種」が人から人へうつって起こるという考えも示した。

アルブレヒト・デューラーのものとされる、梅毒の人物を描いた医学挿画 (1496年)。ここでは梅毒の占星術的な要因が信じられている。
アルブレヒト・デューラーのものとされる、梅毒の人物を描いた医学挿画 (1496年)。ここでは梅毒の占星術的な要因が信じられている。Wikimedia Commons Attributed to Albrecht Dürer · Public domain

病はどこから来たのか。古くから有力なのは、コロンブスの到達の船乗りがアメリカから持ち帰ったという説である。コロンブスの一行は1493年に帰国し、スペインの兵はシャルルの敵としてもナポリにいた。新しい病がちょうどその2年後に爆発したことは、偶然にしてはできすぎている。アメリカ大陸からは、コロンブスより前の時代の、梅毒に近い病の跡のある骨がいくつも見つかっている。旧大陸と新大陸の間で作物や家畜や病が行き来したコロンブス交換の中で、天然痘とは逆向きにアメリカから渡った病だというのである。

これに対して、梅毒はもともとヨーロッパにもあり、1495年に急に悪性に変わっただけだとする説がある。1492年より前のヨーロッパの骨に梅毒の跡があるとする報告もあるが、年代の測り方や、ハンセン病など別の病との見分けに異論が出ている。近年は古い骨から病原の細菌の遺伝子を取り出す研究が進み、どちらの説にも材料を出しているが、決着はついていない。

鼻の欠陥の外科的修復に用いられた、初期の組織移植術。
鼻の欠陥の外科的修復に用いられた、初期の組織移植術。Wikimedia Commons Gaspare Tagliacozzi - scanned by Google · Public domain

治療は長く、水銀に頼るしかなかった。水銀を塗り、蒸気を吸わせる治療は、歯が抜け、体を壊す苦しいもので、病そのものと同じくらい人を痛めつけた。1910年、ドイツのエールリヒと日本の秦佐八郎が、ヒ素の化合物サルバルサンを作り出した。606番目に試した薬だったことから「606号」とも呼ばれる。初めて特定の病原体を狙い撃ちにした化学療法の薬だった。1940年代にはペニシリンの発見から生まれたペニシリンが梅毒によく効くことが分かり、病は治るものになった。

それでも梅毒は消えていない。世界保健機関は、2022年に世界で800万人ほどが新たに感染したと推計している。日本でも2010年代から報告が急に増え、年に1万人を超えるようになった。500年あまり前、ナポリを囲む兵の中で始まった流行は、まだ終わっていない。

同じ時代のできごと

エルミナ城の建設AD1482年銀閣と東山文化AD1482年コンゴ王国とポルトガルの接触AD1483年ボズワースの戦いAD1485年8月22日山城国一揆AD1485年12月村田珠光と侘び茶AD1490年頃ピコ『人間の尊厳について』AD1486年雪舟の山水長巻AD1486年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1495年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →