キプリアヌスの疫病

概要
三世紀の危機のさなか、帝国全体で十数年続いた。ローマで一日5000人が死んだと伝わる。病名は分かっていない。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
本文
3世紀の半ば、ローマ帝国は内と外から崩れかけていた。235年に皇帝セウェルス・アレクサンデルが殺されてから、軍が皇帝を立てては殺す時代が続いていた(三世紀の危機)。北ではゴート人が国境を越え、東ではペルシアのササン朝が攻めてきた。そのさなかの249年ごろ、新しい疫病が現れた。
後の時代の記録によれば、病はエチオピアから始まり、エジプトを経て、帝国の東から西へと広がった。250年代を通じて各地を繰り返し襲い、地域によっては260年代まで続いた。病名はカルタゴの司教キプリアヌスに由来する。彼が252年ごろに書いた説教『死を免れぬことについて』に、症状が詳しく記されていた。
キプリアヌスの描く病は激しい。腸がゆるんで力が抜け、体の内側から熱が燃え上がり、喉が腫れてただれる。吐き気が止まらず、目は血走る。手足が腐って失われる者もいれば、耳や目が利かなくなる者もいた。キプリアヌスは、この苦しみの中でもキリスト教徒は死を恐れるべきでないと説いた。病の様子を書いたのは、医学のためではなく、信徒を励ますためだった。
キプリアヌス自身は、カルタゴの裕福な家に生まれ、弁論術の教師として名を知られた人だった。40歳前後でキリスト教に改宗し、わずか数年で司教に選ばれた。250年の迫害のときには町を離れて身を隠し、のちに逃げたと非難された。迫害の中で信仰を捨てた信徒を教会に戻してよいかをめぐる論争でも、中心にいた。疫病が襲ったのは、教会がこうした傷を抱えていた時期だった。
被害の大きさを示す数字は、どれも確かではない。後の時代の皇帝伝『ローマ皇帝群像』は、ローマで一日に5000人が死んだと書いているが、この書物は誇張や創作の多いことで知られる。アレクサンドリアの司教ディオニュシオスは、町の14歳から80歳までの人の数が、かつての40歳から70歳までの人の数より少なくなったと手紙に書いた。これをもとに、町の人口が6割ほど減ったとする推計がある。251年には皇帝ホスティリアヌスがこの病で死んだとされ、270年にはクラウディウス2世も疫病で死んでいるが、同じ病だったかどうかは分からない。
この疫病が何だったのかは分かっていない。天然痘や麻疹のほか、症状の激しさや手足の壊死から、エボラのような出血熱だったとする説もある。エジプトのテーベ(ルクソール)では、この時期のものと考えられる、遺体を石灰で覆って急いで処理した跡が見つかっている。ただし病原体そのものはまだ特定されていない。
疫病は、帝国の危機を深くした。兵が死んで軍が細り、農民が死んで畑が荒れ、税が入らなくなった。250年、皇帝デキウスは全住民に神々への犠牲を捧げるよう命じた。疫病や戦乱を神々の怒りと見て、帝国の結束を取り戻そうとしたものと考えられている。拒んだキリスト教徒は迫害された。257年からは皇帝ウァレリアヌスが再び迫害を命じ、キプリアヌスは258年に斬首された。そのウァレリアヌスは260年、ペルシアとの戦いで捕虜になる(ローマ皇帝が捕らわれる)。帝国は東西に割れかけ、再びまとまるのは270年代のことである(アウレリアヌスの帝国再統一)。
この疫病がキリスト教を広げたという見方がある。病人を見捨てて逃げる者が多い中で、教会は信徒に、信徒でない者も含めて病人の世話をするよう呼びかけた。キプリアヌスの伝記を書いた助祭ポンティウスは、司教が町の人々に、敵のためにも祈り、助けるよう説いたと記している。水や食べ物を与えるだけの看病でも、病人が生き延びる見込みは上がる。生き残った人々の中から信徒が増え、家族を失った人々が教会の共同体に加わった。アメリカの社会学者スタークらはこう論じたが、どこまで数字で裏づけられるかについては議論がある。
一世紀前のアントニヌスの疫病、三世紀後のユスティニアヌスの疫病と並んで、この疫病はローマ世界を揺るがした大きな流行の一つに数えられる。皇帝が神々に祈りを命じた帝国で、看病を組織した宗教が力を得ていった。キリスト教が帝国の国教となるのは、それから100年あまり後のことである(キリスト教の国教化)。