アテナイの疫病

概要
ペロポネソス戦争の2年目、城壁の中に避難民が詰め込まれたところへ来た。ペリクレスも死ぬ。トゥキュディデスが自分も罹った上で症状を書き残した。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
本文
紀元前431年、アテナイとスパルタのあいだでペロポネソス戦争が始まった。陸の戦いではスパルタが強く、海ではアテナイが強い。アテナイの指導者ペリクレスは、陸でスパルタと正面から戦うことを避けた。アッティカの農村の住民を、アテナイの市内と、港町ペイライエウスまで続く長い城壁の内側に移し、海からの補給で食べ物をまかないながら、艦隊でスパルタの側の土地を荒らす。城壁の外の畑や家は、毎年攻めてくるスパルタの軍に荒らされるにまかせた。
狭い市内には、農村から逃げてきた人びとがあふれた。家の無い者は、神殿の境内や城壁の塔、粗末な小屋で暮らした。暑い夏に、水も衛生も行き届かないまま、人が詰め込まれていた。
紀元前430年の夏、病はまずペイライエウスで始まった。歴史家トゥキュディデスによれば、病はエチオピアから起こり、エジプトやリビアを経てやってきたという。港の人びとは、スパルタが井戸に毒を入れたのだと言い合った。病はやがて市内に広がった。
トゥキュディデスは自分も罹り、生き延びて、その様子を書き残した。後の人が同じ病に出会ったとき、それと分かるように、と彼は書いている。健康な人が突然、頭に激しい熱を感じ、目が赤く充血する。喉と舌から血がにじみ、息が臭くなる。くしゃみと声のかれが続き、やがて痛みは胸に下りて、激しい咳になる。胃に下りると、吐き気と嘔吐に苦しむ。肌は赤みを帯び、小さな膿の粒やただれができる。体の中が燃えるように熱く、薄い衣も耐えられず、冷たい水に飛び込みたがる者も多かった。渇きは癒えず、眠れない。多くは7日目か9日目に死んだ。助かっても、手足の指や目を失った者、記憶を失った者がいた。
医者たちは何もできず、患者に近づくぶん、真っ先に倒れた。看病した者が次に倒れ、恐れて看病しなければ、病人は見捨てられて死んだ。死体を食べる鳥や獣も死体に近寄らず、近寄ったものは死んだ、とトゥキュディデスは書く。一度罹って治った人は、二度目には命を落とすほど重くならなかった。そうした人びとが、病人の世話を引き受けた。罹った人が二度目は重くならないことを書いた、最も古い記録の一つになる。
社会の秩序も崩れた。神殿には死体が積み重なり、葬儀の作法は守られなくなった。他人のために組まれた火葬の薪の上に、自分の家族の遺体を投げ込んで去る者もいた。明日も生きているか分からないなら、と人びとは目の前の楽しみに金を使い、神への畏れも法への恐れも、人を止めなくなった。
トゥキュディデスは、この病の記述を、その直前に置いたペリクレスの葬送の演説のすぐ後に続けている。自由で開かれた民主政のアテナイを誇らかに語った演説の後に、その町が病の中で崩れていく姿が来る。歴史の書き方として、強い対比になっている。
病は、遠征の軍にも広がった。翌年、ペリクレスは市民の非難を浴び、一時は職を解かれた。そして紀元前429年の秋、彼自身も病に倒れて死んだ。その少し前に、二人の息子も病で失っていた。病は紀元前427年から翌年にかけて再び流行した。トゥキュディデスは、重装歩兵4400人と騎兵300人が死に、ほかの人びとの死者は数えきれないと書いている。人口の4分の1から3分の1が死んだと推定されている。ペリクレスを失ったアテナイは、のちに無謀なシケリア遠征に乗り出し、やがて戦争に敗れる。

病名は分かっていない。腸チフス、発疹チフス、天然痘、麻疹、出血熱。どれも候補に挙がり、決め手が無い。1990年代にアテナイの古い墓地で、この時期の集団墓が見つかった。2006年、そこから出た歯のDNAを調べた研究は、腸チフスの菌に近いものを示したが、方法や結果の読み方に異論が出ている。
マクニールの『疫病と世界史』は、これを記録に残る古い流行の代表として扱った(物語「『疫病と世界史』で読む歴史」)。人が狭い城壁の中に密集したとき、病は人口と政治と戦争の行方まで変える。書き残した人が自分も罹っていた、という点でも、疫病の史料として最も古い部類に入る。