天然痘の根絶宣言
概要
人類が病を一つ、地上から消した。最後の自然感染は1977年のソマリア。20世紀だけで3億人を殺した病が、13年の計画で終わった。
場所
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)
本文
1980年5月8日、ジュネーヴで開かれた世界保健機関(WHO)の総会は、天然痘が地球上から根絶されたと宣言した。人類が一つの病気を、意図して、完全に消し去ったのは、これが初めてであり、人の病気としてはいまも唯一の例である。
天然痘は、天然痘ウイルスによる感染症である。高い熱が出たあと、顔から全身に膿をもった発疹が広がる。重い型では、かかった人のおよそ3割が死に、生き延びても顔にあばたが残り、失明することも多かった。人から人へ、咳や患者の衣類を通じてうつり、人以外に宿る動物はいない。何千年ものあいだ人類とともにあり、古代エジプトのミイラにもその痕が見られるとされる。20世紀に入ってからだけでも、3億人ほどが天然痘で死んだと推計されている。

人々は、この病気に一度かかって治った人は二度とかからないことを、昔から知っていた。そこから、患者の膿をわざと軽くうつして免疫をつける人痘接種が、中国やインド、トルコなどで行われ、18世紀にはヨーロッパにも伝わった(人痘接種)。1796年、イギリスの医師エドワード・ジェンナーは、牛の病気である牛痘をうつすことで天然痘を防げることを示した(ジェンナーの種痘)。これが種痘であり、ワクチンという言葉もここから生まれた。ジェンナー自身、この方法がいつか天然痘を絶滅させるだろうと予言している。
だが、それから150年以上がたっても、天然痘は消えなかった。豊かな国々では種痘が行き渡り、流行は抑えられていったが、アジアやアフリカ、南米の多くの国では、なお日常の病だった。1960年代の半ばになっても、30か国あまりで流行が続き、毎年1000万から1500万人がかかり、およそ200万人が死んでいた。

根絶を最初に国際社会に呼びかけたのはソ連だった。1958年、ソ連の代表がWHOの総会で計画を提案し、翌年に採択された。しかし資金も人も足りず、計画は進まなかった。1966年の総会で、各国が資金を出し合う強化された計画が決まり、翌1967年に本格的に動き出す。指揮をとったのは、アメリカの疫学者ドナルド・ヘンダーソンである。冷戦のさなかにありながら、ソ連は毎年大量のワクチンを提供し、アメリカは資金と専門家を出した。対立する二つの大国が、この一点では手を組んだ。
天然痘は、根絶に向いた病気だった。人にしかうつらず、動物の中に隠れることがない。かかればはっきりした発疹が出るので、見つけやすい。症状のないままウイルスを広げることもほとんどない。そして、一回の接種で長く効く、安くて熱に強いワクチンがあった。凍結乾燥させたワクチンは冷蔵庫のない土地にも運べ、先が二股に分かれた簡単な針を使えば、短い訓練を受けただけの人でも接種ができた。

計画の初めは、国民の大部分に種痘をして流行を断つことを目指していた。ところが、西アフリカのナイジェリアで働いていたアメリカの医師たちが、ワクチンが足りない中で別のやり方を試した。患者が出たという知らせが入ると、すぐに駆けつけ、その患者の家族や近所の人、接触した人を探し出して、まわりを囲むように接種する。これでウイルスの行き場がなくなり、全員に接種するよりはるかに少ないワクチンで流行が止まった。患者を探し出す監視と、まわりを封じ込める接種。この方法が計画の柱になった。
作業は地道で、苛酷だった。何万人もの保健の働き手が、村から村を歩き回り、天然痘の患者を見なかったかを尋ねた。患者を知らせた人には懸賞金が出され、病気の写真を印刷したカードが配られた。内戦や洪水、飢饉の中でも作業は続けられた。日本からも医師の蟻田功が加わり、のちにWHOの根絶対策の本部の責任者を務めている。

流行地は一つずつ消えていった。1971年には南米で最後の患者が出て、アジアでは最大の流行地だったインドで1975年に患者が途絶えた。同じ1975年、バングラデシュで3歳の少女が発病し、これが重い型の天然痘の、自然な感染による最後の患者になった。残るはアフリカの角だけだった。1977年10月、ソマリアの港町メルカの病院で調理人として働いていた青年が発病した。軽い型の天然痘で、彼は回復した。これが、自然に起きた天然痘の最後の患者である。彼はのちに、ポリオの根絶の運動に加わって働いた。
その後、天然痘の死者はもう一人出ている。1978年、イギリスのバーミンガム大学で、天然痘ウイルスを扱う研究室の上の階で働いていた写真家が感染して死んだ。ウイルスが研究室から漏れたとみられている。研究室の責任者は自ら命を絶った。根絶の直前に起きたこの事故は、ウイルスを保管し続けることの危うさを示した。

それから2年あまり、世界中で新たな患者が出ないことが確かめられた。専門家の委員会が1979年の暮れに根絶を確認し、翌年の総会で宣言が行われた。計画の13年間にかかった費用は、各国の負担を合わせて3億ドルほどとされる。種痘や検疫にかかる費用がなくなったことで、それを上回る額が毎年浮くことになった。日本でも、定期の種痘は1976年に事実上やめられている。
根絶のあと、天然痘のウイルスは、アメリカのアトランタにある疾病対策センターと、ロシアのノヴォシビルスク近郊の研究所の二か所だけに残されることになった。研究のために残すべきだという意見と、事故や悪用を防ぐために廃棄すべきだという意見が対立し、廃棄の期限は何度も延ばされて、いまも決着していない。種痘をやめてから生まれた世代は天然痘への免疫を持たず、生物兵器として使われることへの恐れも消えていない。

天然痘の成功のあと、人類はほかの病気の根絶にも挑んだ。ポリオは患者を99%以上減らしたが、まだ最後の一歩が残っている。人の病気ではないが、2011年には家畜の伝染病である牛疫の根絶が宣言された(牛疫の根絶)。病気の根絶がどれほど難しいかは、2020年からのCOVID-19の世界的流行の大流行を経験した私たちには、よく分かる。科学ジャーナリストのマット・リドレーは『繁栄』の中で、天然痘の根絶を、人類が作り上げてきた「よりよい今日」の例として挙げている(物語「『繁栄』で読む歴史」)。国と国が敵対していても、一つの目標のためには手を結べる。その記録としても、天然痘の根絶は語り継がれている。