西アフリカのエボラ流行

概要
ギニアの村の2歳の子から始まり、三か国で2万8000人が感染し、1万1000人が死んだ。医療従事者が500人死んだ。国境なき医師団が「制御不能」と宣言してから、世界が動いた。
場所
8.56°N -10.13°E · ギニア
本文
エボラ出血熱は、1976年に中部アフリカのザイール(いまのコンゴ民主共和国)とスーダンで初めて見つかった病である。高い熱、嘔吐と下痢、ときに出血を伴い、患者の血液や吐いたもの、汗などの体液に触れることでうつる。それまでの流行はどれも中部アフリカの奥地の村で起き、数十人から数百人の犠牲を出して収まっていた。西アフリカでは、人の間の流行は知られていなかった。
2013年12月、ギニア南東部のゲケドゥ県、深い森の中のメリアンドゥ村で、1歳半から2歳ほどの男の子が熱を出し、黒い便を出して数日で死んだ。続いて姉、母、祖母が死に、葬儀に集まった人々や、手当てをした医療者が次々に倒れた。のちの調査では、村には子どもたちが遊ぶ木の洞があり、そこにすみついていたコウモリから最初の感染が起きた可能性が指摘されている。病は数か月の間、正体が分からないまま、コレラやラッサ熱と思われて広がっていった。

2014年3月、フランスの研究所が検体を調べ、ザイール型のエボラウイルスだと突き止めた。国境なき医師団(国境なき医師団)はただちに治療の施設を開き、3月末には、これは前例のない流行だと警告した。ギニア、リベリア、シエラレオネの三国の国境が交わるあたりは、人と物が国境を越えて行き来する土地で、病もまた国境を越えた。過去の流行と違い、病はやがて三国の首都、コナクリ、モンロビア、フリータウンに入りこんだ。人が密集する大都市で、エボラが大規模に広がったのは初めてだった。6月、国境なき医師団は流行が制御できない状態にあると訴えた。
三国はどこも、長い内戦や貧しさのために医療の仕組みが弱かった。リベリアでは、400万を超える国民に対して医師は50人ほどしかいなかったとされる。患者を受け入れる病床は足りず、治療の施設の前で、運び込まれた患者が門の外で死んでいくこともあった。シエラレオネでエボラの治療の先頭に立っていた医師シェイク・ウマル・カーンも、7月に感染して死んだ。病は、手を差しのべる者から倒していった。

世界保健機関(世界保健機関の設立)が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言したのは、8月8日のことだった。初めの患者から8か月が過ぎており、対応が遅すぎたと強く批判された。9月にはリベリアだけで週に数百人の新しい患者が出て、遺体が道に放置されることもあった。死者の体には大量のウイルスが残り、遺体を洗い、触れて別れを告げる昔からの葬儀の習慣が、感染を広げた。感染を防ぐ「安全な埋葬」の班が送られたが、家族を最後に抱くこともできない埋葬は、強い反発を受けた。
流行は外の世界にも届いた。7月にはリベリアから飛行機で来た男性がナイジェリアのラゴスで発病したが、ナイジェリアは接触した人を徹底して追いかけ、広がりを抑え込んだ。9月にはリベリアからアメリカのダラスに着いた男性が発病して死に、手当てをした看護師2人が感染した。アメリカでは不安が広がり、旅行の制限を求める声が上がった。アメリカは軍の部隊を3000人近くリベリアに送り、治療の施設を建て、イギリスはシエラレオネを、フランスはギニアを主に支えた。キューバは数百人の医療者を三国に送った。

流行が下火になりかけた2015年、ギニアで新しいワクチンの試験が行われた。患者が出るとその周りの接触者と、そのまた接触者に輪のように接種する方法で、接種を受けた人からは発病がほとんど出ないという、目覚ましい結果が出た。2016年3月、世界保健機関は緊急事態の終わりを宣言し、6月には流行の終息が告げられた。
最終的に、感染者は2万8000人を超え、死者は1万1000人を超えた。それまでのエボラの流行をすべて合わせたよりも多い。医療に携わる人は880人あまりが感染し、500人あまりが死んだ。生き残った1万7000人ほどの人々の中には、目の病や関節の痛み、疲れが長く残る人が多く、回復した後も体の一部にウイルスが長く残ることが分かった。治った人が差別を受けることもあった。2019年にはワクチンが正式に認められ、その後のコンゴでの流行では、ワクチンと治療薬が使われるようになった。この流行で浮かび上がった、国境を越える病への備えの弱さは、数年後のCOVID-19の世界的流行で、もう一度世界に突きつけられることになる。