できごと

ロンドン地下鉄の開業

Metropolitan Railway
AD1863年1月10日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1863年1月10日ロンドン
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概要

パディントンからファリンドン・ストリートまで6キロ。世界初の地下鉄。掘割を掘って蓋をする「開削工法」。蒸気機関車が走ったので、煙が充満した(換気口を開け、機関車は自分の煙を水槽に溜める仕組みを積んだ。それでも息苦しかった)。初日に4万人。1890年、電化された最初の深い地下鉄(シティ・アンド・サウス・ロンドン線)。都市が、垂直に広がり始めた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

1850年代のロンドンは、人口250万を超える世界最大の都市だった。商業と金融の中心であるシティには、毎朝数十万の人々が、歩いて、あるいは乗合馬車や辻馬車で押し寄せ、夕方にまた出ていった。狭い街路は馬車と荷車と人で埋まり、ほんのわずかな距離を進むのに何十分もかかった。1825年の鉄道の開業以来、鉄道は各地の時計の時刻まで揃えさせながら(鉄道と標準時)イギリス中に網を広げ、ロンドンにも各地からの線路が延びていたが、その終着駅は市街の外縁に輪のように並んで止まっていた。西のパディントン、北のユーストンやキングズ・クロス。建物が密集し、地価の高い中心部に線路を引き込むことは、事実上できなかったのである。地方から列車で着いた旅客は、終着駅で馬車に乗り換え、渋滞の中をシティへ向かうしかなかった。

地面の上が無理なら、地面の下を通せばよい。そう唱え続けたのが、シティの法務官チャールズ・ピアソンだった。彼は1840年代から地下鉄道の構想を説き、交通渋滞の解消とともに、劣悪な住宅に押し込められた労働者を、安い運賃で郊外の住まいから通わせることを夢見ていた。1854年、パディントンとシティの近くを結ぶメトロポリタン鉄道の建設が議会で認められた。だが資金集めは難航し、工事が始まったのは1860年のことだった。

1862年12月、開業の前月のイラストレイテド・ロンドン・ニュースから、メトロポリタン鉄道の各駅のモンタージュ
1862年12月、開業の前月のイラストレイテド・ロンドン・ニュースから、メトロポリタン鉄道の各駅のモンタージュWikimedia Commons Unknown (illegible) · Public domain

工法は、「開削工法」と呼ばれる方法だった。道路を幅いっぱいに深く掘り下げ、両側に煉瓦の壁を築き、底に線路を敷いてから、上をれんがのアーチで覆い、道路を元に戻す。線路の大部分は、ニュー・ロード(いまのユーストン・ロード)など既存の大通りの真下に通された。道路の下なら、建物を買い取る費用が少なくて済むからである。それでも工事の途中では多くの家屋が取り壊され、住んでいた貧しい人々は、十分な補償もなく立ち退かされた。1862年には、すでに地下の暗渠になっていたフリート川があふれ、工事中の掘割を水浸しにする事故も起きた。ピアソンは、開業を見ることなく、その年に死んだ。

1863年1月10日、世界最初の地下鉄が営業を始めた。パディントンからシティの北端のファリンドン・ストリートまで、約6キロ、駅は7つだった。初日だけで4万人近くが乗りに押し寄せ、最初の1年で900万人あまりが利用した。地下を走る鉄道を怖がる人もいたが、渋滞を抜けて短時間で目的地に着ける便利さはそれを上回った。

ロンドン地下鉄の提唱者、チャールズ・ピアソン
ロンドン地下鉄の提唱者、チャールズ・ピアソンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ただし、地下を走るのは蒸気機関車だった。煙と蒸気をどう処理するかが最大の問題で、技師ダニエル・グーチの設計した機関車などは、トンネルの中では排気を水槽に通して冷やし、煙を外に出さない仕組みを備えていた。それでも駅やトンネルの中は、石炭の煙と硫黄の臭いと蒸気で満ちた。乗客は目がしみ、咳き込んだ。鉄道会社が、この空気は喘息に効くと言い張ったという話も伝わる。車内はガス灯で照らされ、乗客は一等から三等に分かれて乗った。

煙に悩まされながらも、地下鉄は延び続けた。1868年には南西へ向かう別会社のディストリクト鉄道が開業し、二つの会社の線路は、のちにロンドン中心部をぐるりと一周する環状線として、1884年につながった。

メトロポリタン鉄道のキングス・クロス駅までの建設の様子、1861年
メトロポリタン鉄道のキングス・クロス駅までの建設の様子、1861年Wikimedia Commons Percy William Justyne · Public domain

次の飛躍は、より深い地下からやってきた。道路の下を浅く掘る開削工法では、通れる場所が限られる。そこで、円筒形の鉄の枠(シールド)を地中で押し進めながら、その後ろを鉄の輪で固めてトンネルを掘る工法が使われるようになった。1870年にはテムズ川の下にこの工法で小さなトンネルが通されている。1890年12月、シティとテムズ川の南を結ぶシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道が開業した。地下深くに掘った円い管のようなトンネルを、電気機関車が走る。煙のない、世界初の本格的な電気の地下鉄だった。初期の客車は窓がごく小さく、どうせ外は真っ暗で見るものがないからだと説明されたが、乗客からは詰め物をした独房とからかわれた。この円いトンネルの形から、ロンドンの地下鉄は「チューブ」と呼ばれるようになる。

20世紀の初め、地下鉄の路線は次々と開通した。1900年には、どこまで乗っても2ペンスの均一運賃で「2ペンスの管」と呼ばれたセントラル・ロンドン鉄道が、1906年から翌年にかけてはベーカールー線、ピカデリー線などが開業した。蒸気で走っていた古い路線も電化された。ばらばらだった各社は、やがて共通の「アンダーグラウンド」の看板のもとにまとめられ、赤い円に青い横棒を重ねた標章が駅に掲げられた。1916年には、書家エドワード・ジョンストンが、案内のための専用の書体をデザインした。1931年、電気技師ハリー・ベックは、地理上の正確さを捨てて、路線を縦・横・斜め45度の直線だけで描き、駅の間隔を等しくした路線図を考案した。地図らしくないと一度は退けられたが、1933年に試しに刷られると乗客に歓迎され、この描き方はいまや世界中の鉄道の路線図の手本になっている。

ファリンドン付近のメトロポリタン鉄道の切り取り区間、1862年6月のフリート川暗渠からの洪水の直後
ファリンドン付近のメトロポリタン鉄道の切り取り区間、1862年6月のフリート川暗渠からの洪水の直後Wikimedia Commons Unknown (unsigned) · Public domain

第二次世界大戦中、ドイツ軍の空襲が始まると、地下鉄の駅は人々の避難所になった。政府は当初、駅を防空壕として使うことを禁じたが、市民は切符を買って構内に降り、そのまま夜を明かした。黙認せざるを得なくなった当局は、やがて寝台や売店を整えた。最も多い夜には17万人以上が地下で眠ったという。

地下鉄は、都市の形そのものを変えた。人々は中心部から離れた場所に住み、毎日電車で通勤するようになった。メトロポリタン鉄道は自ら北西の郊外の土地を買って住宅地を開発し、その一帯は「メトロランド」と呼ばれた。緑の多い郊外の一戸建てから都心へ通うという暮らし方は、ここから世界の大都市へ広がっていった。いまロンドンの地下鉄は11の路線、270あまりの駅、総延長400キロを超え、年に10億人以上を運んでいる。1863年にパディントンの地下に開いた穴は、その最初の一歩だった。

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