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Event / できごと

成田空港の開港

Narita International Airport
AD1978年5月20日
重要度 3
ソビエト連邦中国モンゴルチベットビルマ大英帝国タイ日本ベトナムラオスフィリピンカンボジア朝鮮民主主義人民共和国大韓民国AD1978年5月20日成田
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1978年5月20日の版図を描いています(14勢力)。

概要

羽田空港が手狭になると、政府は1966年、千葉県の三里塚・芝山に新しい国際空港を造ることを、地元の農民に相談しないまま決めた。農民たちは反対の同盟を作り、新左翼の学生たちも加わって、激しい闘争になった。1971年の土地の強制収用では、機動隊員3人が殺された。開港の直前の1978年3月には、過激派が管制塔に侵入して機器を壊し、開港は延期された。5月20日、空港は厳重な警備の中で開港した。1990年代、政府は話し合いの場で、強引な進め方を農民に謝罪した。

場所

成田
35.77°N 140.39°E · 日本・千葉県成田市

本文

1960年代、羽田空港は国際線の便が増えて手狭になり、ジェット機の時代に備えた新しい空港が必要とされた。政府ははじめ、千葉県の富里を候補にしたが、地元の強い反対で断念し、1966年7月、隣の成田市の三里塚と芝山町に空港を造ることを、閣議で決めた。地元の農民には、ほとんど知らされないまま決められた。三里塚には、皇室の御料牧場と、戦後に開拓に入った農民の畑があった。

農民たちは、三里塚芝山連合空港反対同盟を作って反対した。戦後に苦労して荒れ地を開いた土地を奪われることへの怒りだった。ベトナム戦争に反対する運動が盛り上がっていた時代で、新左翼の学生たちが支援に駆けつけ、闘争は過激になっていった。農民たちは、地下に壕を掘り、櫓を立てて立てこもった。

1971年、政府は土地の強制収用に踏み切った。2月と9月の代執行では、機動隊と、反対派の農民と学生が激しくぶつかった。9月16日には、警備にあたっていた機動隊員3人が、過激派の学生らに襲われて殺された。収用を苦にして自ら命を絶った青年もいた。

空港は1978年3月30日に開港する予定だった。だがその4日前の3月26日、過激派のグループが、地下の排水溝から管制塔に侵入し、管制室の機器を叩き壊した。開港は延期され、5月20日、一万人を超える機動隊が警備する中で、ようやく開港した。滑走路は計画の3本のうち1本だけで、空港は鉄条網とフェンスに囲まれ、利用者は入口で検問を受けた。

1991年から、国と反対派の農民の一部が公開の場で話し合う「成田空港問題シンポジウム」が開かれた。その場で国は、空港の建設を地元との話し合いを欠いたまま強引に進めたことを謝罪した。2本目の滑走路は、反対派の土地を避けて短く造られ、2002年に使われ始めた。空港の敷地の中には、いまも土地を手放さない人々の畑が残っている。

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