鉄道と標準時
概要
それまで、時刻は町ごとに違った。太陽が南中したときが正午である。ロンドンとブリストルでは10分ずれる。歩く速さでは問題にならない。鉄道が走ると、時刻表が組めず、単線ですれ違い事故が起きる。1840年、グレート・ウェスタン鉄道がロンドンの時刻を全線で使い始めた。1855年までにイギリスの時計の98%がグリニッジ時刻に合った。町の時計に針を二本つけた教会もある。時間が、天体からではなく、電信線を通って配られるものになった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
19世紀の初めまで、時刻はその土地のものだった。太陽が真南に来た瞬間が正午であり、町の時計はその町の太陽に合わせてあった。だから経度が違えば、正午も違う。ロンドンより西にあるブリストルでは、太陽が真南に来るのがおよそ10分遅い。さらに西のコーンウォールのペンザンスでは20分あまり遅い。大陸の広いアメリカでは、東のニューヨークと内陸のシカゴで1時間近く違った。
歩いたり馬車に乗ったりして移動している限り、これは問題にならなかった。ロンドンからブリストルまで、馬車の旅は丸一日以上かかる。隣の町へ着くまでに半日かかるなら、時計の10分の違いに気づく人はいない。旅人は、着いた町の教会の時計に自分の時計を合わせればよかった。

それを変えたのが鉄道である。1825年に鉄道の開業で蒸気機関車が客と荷を運び始め、1830年にはリヴァプールとマンチェスターの間に本格的な旅客鉄道が開業した。1841年にグレート・ウェスタン鉄道がロンドンとブリストルの間を結ぶと、馬車で1日以上かかった道のりが4時間ほどになった。
すると、時刻表が組めなくなる。ブリストル発9時と書いたとき、それはブリストルの9時なのか、ロンドンの9時なのか。ブリストルの時計を見て9時に駅へ来た乗客にとって、ロンドン時刻で動く列車はもう出てしまっている。途中の駅ごとに地元の時刻で書けば、表は誰にも読めないものになる。
もっと深刻なのは安全だった。初期の路線には線路が一本しかない区間が多く、上りと下りの列車は決められた駅の待避線ですれ違う。上りの列車はA駅で何時何分まで下りの列車を待つ、という取り決めは、両方の駅の時計が同じ時刻を指していなければ意味をなさない。時計がずれていれば、待つべき列車が出てしまい、一本の線路の上で正面からぶつかりかねない。
同じころ、新しい道具が線路沿いに張られ始めていた。1837年にクックとホイートストンが実用化した電信である。もとは列車の運行の連絡に使われたが、電信は時刻そのものを瞬時に遠くまで送ることができた。鉄道が時刻を一つにする必要を生み、電信がそれを可能にした。
1840年11月、グレート・ウェスタン鉄道は、全線の駅の時刻をロンドンの時刻にそろえると決めた。のちにグリニッジ天文台の時刻を基準とすることがはっきりし、この時刻は「鉄道時刻」と呼ばれた。1847年には、鉄道各社の運賃を精算する機関がすべての会社にグリニッジ時刻を使うよう勧め、翌年までにほとんどの会社が従った。1852年からは、グリニッジ天文台の親時計が電信線を通じて全国へ時報の信号を送るようになる。時刻は、それぞれの町が自分の空を見て決めるものから、線を通って中央から配られるものに変わった。
町の側は、すぐには従わなかった。多くの町が駅の時刻に教会の時計を合わせていったが、自分たちの太陽にこだわる町もあった。ブリストルの穀物取引所の時計には分針が2本あり、1本はロンドン時刻を、もう1本は10分遅いブリストルの時刻を指していた。この時計はいまも同じ場所に掛かっている。オックスフォードのクライスト・チャーチの鐘楼は、いまも毎晩、ロンドン時刻の21時5分、つまりオックスフォードの時刻の21時に101回の鐘を打つ。
法の上でも、時刻は割れていた。1858年、ドーセットの裁判所で、開廷の時刻をグリニッジ時刻で数えたために、地元の時刻で間に合ったはずの当事者が欠席扱いにされる出来事があった。上の裁判所は、法律が言う時刻とはその土地の太陽の時刻だと判断した。鉄道と社会はグリニッジ時刻で動いているのに、法の時刻は土地ごとに違うという状態が続いた。1880年、イギリスの議会は、グレートブリテン島の法的な時刻をグリニッジ平均時と定める法律を作り、ようやくこのねじれが解けた。
アメリカの混乱は、さらに大きかった。広い大陸に地元の時刻が数え切れないほどあり、鉄道会社もそれぞれ自分の基準の時刻を使っていたため、1880年代の初めには鉄道の時刻だけで50を超える種類があった。大きな駅には、各社の時刻を示す時計がいくつも並んだ。1883年11月18日の日曜日、アメリカとカナダの鉄道会社は、政府の決定を待たずに、大陸を東部・中部・山岳部・太平洋の四つの時間帯に分けた。その日の正午、多くの町が時計の針を進めたり戻したりしたので、「二つの正午の日」と呼ばれた。連邦議会が時間帯を法律で定めたのは、35年後の1918年である。それまで、アメリカの標準時は民間企業の取り決めだった。
1884年、ワシントンで開かれた本初子午線会議は、グリニッジを通る子午線を経度の基準とすることを決め、世界をおよそ1時間ずつの時間帯に分ける考え方が広がっていく。日本では1886年の勅令で、兵庫県明石市などを通る東経135度の時刻を標準時と定め、1888年から使い始めた。新橋・横浜間の鉄道の開業から十数年後のことである。
時刻が一つになると、暮らしの中の時間も変わった。列車に乗るには、自分の時計が要る。19世紀の後半、アメリカやスイスで懐中時計が機械で大量に作られて安くなり、世紀の終わりには1ドルほどで買える時計まで現れた。工場の始業、学校の始業、列車の発車。決まった時刻に決まった場所にいることが求められ、遅刻が日々の言葉になった。イギリスの歴史家E・P・トンプソンは1967年の論文で、牛の乳を搾り終えるまでが朝である農業の時間から、時計の針に従う工業の時間への移り変わりを描いている。それは産業革命が人々の体に刻んだ変化だった。

いま、世界の時刻はセシウム原子の振動をもとに決められ、協定世界時として、人工衛星の電波やインターネットを通じて配られている。携帯電話の時計は、持ち主が何もしなくても正しい時刻を指す。町の時計がそれぞれの空の太陽に合わせてあった時代は、鉄道が線路を伸ばし、電信が線を張った19世紀に終わった。時間は、天体を見て知るものから、線を通って届くものになったのである。