← 地図で見る
Event / できごと

オリエント急行

Orient Express
AD1883年10月4日
重要度 3
ロシア帝国大英帝国グリーンランドオスマン帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア=ハンガリー帝国ドイツ帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国Algeria (FR)モロッコイタリアルーマニアブルガリアアイスランドギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1883年10月4日パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1883年10月4日の版図を描いています(25勢力)。

概要

ベルギーの実業家ジョルジュ・ナゲルマケールスは、アメリカで寝台車を見て、ヨーロッパの国境を越えて走る豪華な列車を思い立った。1883年10月4日、彼の国際寝台車会社の列車がパリを出て、ウィーン、ブダペスト、ブカレストを経て、黒海の港から船でコンスタンティノープルへ向かった。のちに線路がつながると、パリからイスタンブルまで列車だけで行けるようになった。食堂車では一流の料理が出され、王族や外交官、富豪が乗った。アガサ・クリスティの推理小説の舞台にもなった。飛行機の時代に客を失い、パリとイスタンブルを結ぶ直通の運行は1977年に終わった。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

19世紀の後半、ヨーロッパの鉄道網は国ごとに作られ、国境を越えるたびに列車を乗り換え、税関の検査を受けなければならなかった。長い旅の夜は、座席に座ったまま過ごすしかなかった。

ベルギーの銀行家の息子ジョルジュ・ナゲルマケールスは、アメリカを旅したとき、ジョージ・プルマンが作った豪華な寝台車に乗って感銘を受けた。帰国した彼は、国境を越えて走る寝台車と食堂車の会社を作ろうと考え、各国の鉄道会社と粘り強く交渉した。1876年、国際寝台車会社が生まれた。

1883年10月4日の夕方、パリのストラスブール駅から、彼の列車が出発した。乗っていたのは、招待された政治家、外交官、新聞記者たちだった。列車はストラスブール、ミュンヘン、ウィーン、ブダペストを走り、ルーマニアのジュルジュでドナウ川を船で渡り、さらに列車で黒海の港ヴァルナに着いた。そこから汽船で、オスマン帝国の都コンスタンティノープルに入った。客車にはチーク材とマホガニーの内装が施され、食堂車では一流の料理人が腕をふるった。この列車は、のちに「オリエント急行」と呼ばれるようになった。1889年には、コンスタンティノープルまで線路がつながり、列車だけで行けるようになった。

オリエント急行は、ヨーロッパの東と西を結ぶ豪華な旅の代名詞になった。王族、外交官、富豪、そしてスパイが乗り込んだ。1934年、アガサ・クリスティは、雪で立ち往生した列車の中で起きる殺人を描いた『オリエント急行の殺人』を発表した。二つの世界大戦のあいだも、運行は国境の変化と戦争に翻弄された。1918年、ドイツの休戦の調印は、コンピエーニュの森に止めた国際寝台車会社の食堂車の中で行われた。

第二次世界大戦のあと、冷戦の鉄のカーテンが東西を分け、飛行機が長い旅の主役になると、オリエント急行は豪華さを失い、客も減っていった。パリとイスタンブルを結ぶ直通の運行は、1977年に終わった。その後、古い客車を修復した観光用の豪華列車が、その名を引き継いで走っている。

同じ時代のできごと

バハイ教の始まり1863年4月薩英戦争1863年8月15日(文久3年7月2日)ブラックバーディング1863年ロンドン地下鉄の開業AD1863年1月10日八月十八日の政変1863年9月30日(文久3年8月18日)モンテカルロAD1863年奴隷解放宣言AD1863年1月1日池田屋事件1864年7月8日(元治元年6月5日)
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1883年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります
近代のできごと一覧 →人物一覧 →
歴史データベースとは? →