できごと

急速冷凍

Flash freezing
AD1930年
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandキューバグアテマラAD1930年スプリングフィールド
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1930年の版図を描いています(9勢力)。

概要

ゆっくり凍らせると、氷の結晶が大きく育ち、細胞の壁を破る。解けたとき、水が流れ出て、味も歯応えも失われる。クラレンス・バーズアイは、ラブラドルで先住民が氷点下四十度の外気で魚を一瞬に凍らせ、数か月後も生のように食べられることに気づいた。速く凍らせれば結晶が小さい。彼は二枚の冷えた金属板で挟む装置を作り、1930年、マサチューセッツ州スプリングフィールドの食料品店で試験販売した。冷凍庫を持つ家庭がまだ少なく、普及には二十年を要した。

場所

スプリングフィールド
42.10°N -72.59°E · アメリカ・マサチューセッツ州

関わった人(1)

クラレンス・バーズアイAD1886年12月9日–AD1956年10月7日 · 作った

本文

食べ物を凍らせると、まずくなる。長いあいだ、それが常識だった。原因は氷の結晶にある。食べ物の細胞の中や細胞のあいだの水が凍ると、氷の結晶ができる。ゆっくり凍らせると、先にできた結晶にまわりの水が集まり、結晶は大きく育つ。大きく尖った結晶が細胞の壁を突き破る。解けたとき、破れた細胞から水分と旨みが流れ出し、味も香りも歯ごたえも失われて、ぐずぐずの食べ物になる。冷凍の技術そのものは19世紀の終わりからあり、南半球の肉を凍らせてヨーロッパへ運ぶ船も走っていたが(冷蔵船)、品質の落ちた食材を凍らせて安く売ることも多く、冷凍食品はまずいものという評判が定着していた。

この常識を覆したのが、クラレンス・バーズアイ(1886〜1956年)である。ニューヨークに生まれ、子どもの頃から自然に夢中だった彼は、アマースト大学に入ったが学費が続かずに退学し、アメリカ農務省の生物調査員として西部で野生動物や病気を運ぶダニの調査に携わった。1912年から数年間、彼はカナダ北東部のラブラドルで毛皮の商いをしながら暮らした。

池に張った氷の結晶。ゆっくり冷やすと大きな結晶ができる。急速冷凍は結晶の形成を抑える
池に張った氷の結晶。ゆっくり冷やすと大きな結晶ができる。急速冷凍は結晶の形成を抑えるWikimedia Commons Domenico Salvagnin from Legnaro, Italy · CC BY 2.0

そこで彼は、驚くべきものを見た。気温が氷点下四十度にもなる冬、先住民のイヌイットが釣り上げた魚を外の空気にさらすと、魚は一瞬で凍りつく。数か月後にそれを解かして食べると、釣ったばかりの魚とほとんど変わらない味がした。家族と暮らしていた彼は、キャベツなどの野菜を塩水に浸けて凍らせ、冬のあいだの食料にもしている。

なぜそうなるのか。極端に速く凍らせると、結晶が大きく育つ時間が無い。細胞の中に細かい結晶がたくさんでき、細胞の壁は破れずに残る。とくに、水が凍り始める零度のすぐ下から零下五度くらいまでの温度帯で、結晶はもっとも育ちやすい。この帯をいかに速く通り抜けるかが鍵になる。これが急速冷凍の原理である。

急速冷凍を用いた冷凍保存(クライオプレザベーション)
急速冷凍を用いた冷凍保存(クライオプレザベーション)Wikimedia Commons Public domain

アメリカに戻ったバーズアイは、自分の手で凍らせる装置を作り始めた。1922年、ニューヨークで扇風機と氷と塩水を使って試したが、うまくいかなかった。1924年、漁港のマサチューセッツ州グロスターに会社を移して、新しい仕組みに取り組む。冷媒を通して冷やした二枚の金属板で、箱に詰めた食品を上下から挟むのである。空気で冷やすより、はるかに速く熱を奪える。しかも箱に詰めたまま凍るので、そのまま出荷できた。彼はこの装置で特許を取った。

1929年、食品会社のポスタム社と投資銀行が、バーズアイの会社と特許を二千二百万ドルで買い取った。当時としては破格の値段である。その年の秋、ニューヨークの株式市場が大暴落する。これ以上ない時期の売却だった。ポスタム社はゼネラル・フーズと名を改め、バーズアイの名を二語に分けた「バーズ・アイ」を冷凍食品の商標にした。彼の名前が、そのままブランドになったのである。

バーズアイの卒業写真(1910年)
クラレンス・バーズアイWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1930年3月6日、マサチューセッツ州スプリングフィールドの食料品店で、バーズ・アイの冷凍食品の試験販売が始まった。エンドウ豆、ほうれん草、木苺、さくらんぼ、魚の切り身、肉など、二十六種類ほどが並んだ。だが、すぐには売れなかった。当時の家庭の冷蔵庫には小さな製氷室しかなく、冷凍食品を何日分も入れておけない。店にも凍ったまま並べるケースが無く、会社は自前で冷凍の陳列ケースを作って店に貸し出した。冷凍のまま運ぶ貨車も、自分たちで用意しなければならなかった。そして値段が高かった。世の中は大恐慌のさなかである。

冷凍食品が広く普及したのは、第二次世界大戦の後だった。戦時中、缶詰の材料の金属が軍に回されたことで、代わりに冷凍食品が注目された。戦後、冷凍室の大きな冷蔵庫が家庭に入り、郊外のスーパーマーケットが冷凍食品の売り場を広げた。1953年にはスワンソン社が、アルミの盆に一食分の料理を詰めた「テレビ・ディナー」を売り出し、居間でテレビを見ながら温めて食べる新しい夕食の形ができた。保存食の歴史で言えば、19世紀初めのアペールの瓶詰と缶詰から百年あまりで、ついに生に近い味を保つ方法が台所に届いたことになる。

バーズアイは冷凍だけの人ではなかった。生涯に三百ほどの特許を持ち、捕鯨用の銛から、熱を出す赤外線のランプ、サトウキビの搾りかすから紙を作る方法まで、手当たりしだいに発明した。食べ物への好奇心も並外れていて、若い頃からさまざまな野生動物の肉を試してはその味を書き留めた。晩年はペルーでサトウキビの搾りかすから紙を作る事業に取り組んだが、体をこわして帰国し、1956年、ニューヨークで六十九歳で亡くなった。

いま、冷凍食品はどの家の冷凍庫にもある。魚は漁船の上で凍らされ、野菜は畑のそばの工場で摘みたてのまま凍らされて、季節も距離も越えて運ばれる。その仕組みのいちばん奥には、零下四十度のラブラドルの氷の上で、凍った魚の味に首をかしげた一人の若者の好奇心がある。

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