コールドチェーン
概要
ワクチンは熱で壊れる。製造から接種まで、温度を保ったまま運ばなければならない。1974年、WHOが拡大予防接種計画を始めたとき、最大の障害はこれだった。電気の来ない村へ、二度から八度を保って届ける。灯油とガスで動く冷蔵庫、太陽電池の保冷庫、氷嚢を入れた運搬箱、そして温度が上がると色が変わる標識。天然痘の根絶も、麻疹とポリオの後退も、この鎖が作れたかどうかで決まった。2020年の新型コロナのワクチンで、同じ問題が再び現れた。
場所
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)
本文
ワクチンは壊れやすい。多くはタンパク質や、毒性を弱めた生きた病原体でできていて、熱にさらされれば性質が変わったり、死んだりして効かなくなる。しかも、冷やしすぎてもいけないものがある。免疫の働きを高める添加物を含む不活化のワクチンは、凍ると成分が固まって効き目を失う。B型肝炎や、ジフテリア・百日咳・破傷風の三種混合、破傷風のワクチンがそうである。だから、ただ冷やせばよいのではない。多くのワクチンは、二度から八度のあいだに保たなければならない。工場で作られてから、子どもの腕に注射されるまで、そのすべての区間で、である。この温度を保ったまま運ぶ仕組みを、冷たい鎖、コールドチェーンと呼ぶ。
天然痘のワクチンは、比較的丈夫だった。1950年代に凍結乾燥の技術が確立すると、乾燥させたワクチンは室温でもかなりの期間もつようになった。これが、1966年から始まった世界的な根絶の計画を可能にした条件の一つだった(天然痘の根絶宣言)。だが、ほかの多くのワクチンはそうはいかなかった。

1974年、世界保健機関は拡大予防接種計画を始めた。世界のすべての子どもに、結核、ジフテリア、破傷風、百日咳、ポリオ、麻疹の六つの病気のワクチンを届けるという目標である。当時、途上国で予防接種を受けていた子どもは、五パーセントに満たないと推定されていた。そして最大の障害の一つが、ワクチンを冷やしたまま届けることだった。
鎖は長い。製造所の冷蔵倉庫、冷蔵のコンテナでの空輸、首都の中央倉庫、州や県の倉庫、地域の保健センターの冷蔵庫、そこから村へ運ぶ箱、そして接種の会場での数時間。どこか一か所でも温度が外れれば、その先は全部が無駄になる。しかも途上国の保健センターの多くには、電気が来ていないか、来ていても一日に何度も止まった。

最初の答えは、灯油やガスの火で動く冷蔵庫だった。熱を使って冷やす吸収式の仕組みで、十九世紀にフランスのカレが開発した原理にさかのぼる(製氷機)。火さえあれば動き、動く部品がほとんどないので壊れにくい。ただし燃料を補給し続けなければならず、少し傾くと中の液が循環しなくなる。温度の加減も難しく、炎が強すぎると中のワクチンを凍らせてしまった。凍らせることによる損失は長いあいだ見過ごされていて、近年の調査で、運ぶ途中で凍った経験のあるワクチンが、想定よりはるかに多いことが分かってきた。
1980年代からは、太陽電池で動く冷蔵庫が登場した。だが初期の型は、夜や曇りの日のために蓄電池を必要とした。蓄電池は数年で寿命が尽き、交換の部品は僻地まで届かない。現場には動かなくなった冷蔵庫が並んだ。転機は2000年代に広まった、蓄電池を使わない方式である。日中、太陽電池の電気で厚い水の層を凍らせておき、夜や曇りの日はその氷の冷たさで庫内を保つ。熱を電気ではなく氷として蓄えるこの工夫が、大きな改善になった。
村まで運ぶのは、発泡材の箱に保冷剤を詰めた運搬箱である。何時間保冷できるかが規格で決められている。ここにも落とし穴があった。冷凍庫から出したばかりの保冷剤をそのまま入れると、隣のワクチンが凍ってしまう。そのため、保冷剤をしばらく外に置いて表面が溶け始めるのを待ってから入れる手順が定められたが、現場ではこれがなかなか守られなかった。
大きな効果を上げたのが、温度の目印である。ワクチンの小瓶のラベルに小さな印を付け、それまでに受けた熱の量に応じて、中心の四角が少しずつ濃くなるようにした。中の四角が外側の輪と同じ濃さになったら、そのワクチンは使ってはいけない。温度計も電気もいらず、特別な訓練もほとんど要らない。見ればその場で判断できる。1996年から、世界保健機関が国際機関を通じて調達するワクチンにこの目印が付けられるようになった。以前は冷蔵庫が止まったと聞けば中身を全部捨てていたが、目印のおかげで、まだ使えるワクチンを無駄に捨てることも減った。
こうした工夫の積み重ねで、予防接種は世界中に行き渡っていった。三種混合のワクチンを三回受けた子どもの割合は、2019年には世界で八割台半ばに達した。天然痘は1980年に根絶され、ポリオは野生のウイルスが残る国がごくわずかになり(ソークのポリオワクチン)、麻疹による死者も大きく減った。どれも、ワクチンを作れたかだけでなく、この鎖を作れたかどうかにかかっていた。もっとも2020年からの新型コロナウイルスの流行の中で、各地で予防接種が滞り、2021年には三回の接種を受けた子どもの割合が八割ほどに下がって、二千万人を超える子どもが接種の機会を逃したと推定されている。

その新型コロナで、冷たい鎖の問題はさらに厳しい形で戻ってきた(COVID-19の世界的流行)。2020年末に接種が始まった遺伝子の情報を使う新しいワクチンのうち(mRNAワクチンの接種開始)、ファイザーとビオンテックのものは当初、零下六十度から八十度という超低温での保管が必要とされた。そのための冷凍庫を持たない国は多く、輸送にはドライアイスが大量に要り、世界的にドライアイスが不足した。モデルナのワクチンも零下二十度での保管を求めた。のちにデータがそろって保管の条件は緩められたが、超低温の設備を持つ国から先にワクチンが配られ、持たない国は別の種類のワクチンを待つことになった。冷やす力の差が、誰が先に守られるかの差になったのである。
冷やすという仕事は、一見すると地味である。だがそれは、誰が病から守られるかを左右してきた。ワクチンを作ることと、それを一人ひとりの腕に届けることは別の問題であり、後者のほうがしばしば難しい。製氷の技術や冷蔵の船(冷蔵船)が食べ物の流れを変えたように、冷たい鎖は命の届き方を変えた。