できごと

チェロキー文字の完成

Cherokee syllabary
AD1821年
重要度 3
チェロキー文字の完成に関わる図版:Cherokee sample
Cherokee sample Wikimedia Commons Kaldari · CC0

概要

文字というものがある、と知っただけの男が、12年かけて85字の音節文字を作った。文字を「借りた」側の、いちばん分かりやすい例。

場所

ニュー・エコタ
34.54°N -84.91°E · アメリカ合衆国・ジョージア州(チェロキー国の首都跡)

関わった人(1)

セコイアAD1770年頃–AD1843年8月頃 · 作った

本文

セコイアは1770年ごろ、いまのテネシー州にあったチェロキーの村で生まれた。母はチェロキー、父は白人の交易商人だったとされる。英語は話せず、読み書きもできなかった。銀細工師として暮らし、足が不自由だったと伝わる。若いころ、白人が紙に印を付け、遠く離れた人がそれを読んで同じことを言うのを見た。文字というものがあり、それで言葉を運べる。知っていたのはそれだけだった。

1809年ごろから、セコイアは自分の言葉のための文字を作りはじめた。周りの人々は、何かにとりつかれたように紙や木の皮に印を刻み続ける彼を不審がり、魔術の疑いをかけた。妻が書きためたものを火に投げ込んだ、という話も伝わっている。はじめは単語ごとに一つの印を作ろうとしたが、数が際限なく増えて捨てた。次に、言葉を音節に分けて、一つの音節に一つの印を当てることにした。チェロキー語の音節は限られている。最終的に85(はじめは86)の印に落ち着いた。

シクウォイア
シクウォイアWikimedia Commons Lithographer: Lehman and Duval (George Lehman (d.1870); Peter S. Duval) Painter: Henry Inman (1801-20-28 - 1846-01-17); · Public domain

形の一部は、どこかで目にした英語の綴り字の本から借りたと考えられている。だが音とは関係がない。ローマ字のA、B、D、Wに見える形が、それぞれまったく別の音節を表す。セコイアはアルファベットの読み方を知らなかったので、形だけを借りて、自分で音を割り当てたのである。

セコイアはそのあいだに戦争にも出ている。1813年から翌年にかけて、チェロキーの兵はアメリカ軍の側に立ってクリーク族と戦い、セコイアもその中にいた。仲間の兵たちが故郷へ手紙を書けず、家族の消息も分からないのを見て、文字の必要を強く感じたという話が伝わっている。

セコイアによるチェロキー文字の原形、手書き体と活字体
セコイアによるチェロキー文字の原形、手書き体と活字体Wikimedia Commons Sequoyah · Public domain

1821年、セコイアは部族の長たちの前で、文字が本当に働くことを見せた。幼い娘のアヨカと離れた場所に分かれ、長たちが言った言葉を彼が書き、娘がそれを読み上げた。疑いは驚きに変わった。音節文字は覚える数が少なく、話せる人なら数週間で読めるようになったという。文字は短いあいだに部族の中に広まり、識字率は周りの白人入植者を上回ったと言われる。

文字はすぐに国の形を支えた。チェロキーはジョージア州北部のニュー・エコタを首都に定め、1827年に成文の憲法を作り、1828年には英語とチェロキー語を並べた新聞『チェロキー・フェニックス』を刷りはじめた。白人の制度にならって自分たちを「文明化」したと示せば、土地を守れると考えたのである。

ノースカロライナ州チェロキーの看板
ノースカロライナ州チェロキーの看板Wikimedia Commons Kaldari · Public domain

部族の評議会は、文字の功を認めてセコイアに銀のメダルを贈った。チェロキー語の聖書や讃美歌、法律の文書もこの文字で刷られた。手紙を書き合うことで、すでにアーカンソーへ移っていた西のチェロキーと、東に残ったチェロキーとが、遠く離れていても互いの消息を知ることができるようになった。

その望みはかなわなかった。ジョージアで金が見つかり、入植者が土地を求めた。アンドリュー・ジャクソン大統領のもとで1830年に先住民の強制移住を定める法ができ、連邦最高裁がチェロキーの側に立つ判決を出しても、政権は従わなかった。1838年から翌年にかけて、チェロキーは軍に追い立てられてミシシッピ川の西へ移され、途中で数千人が死んだ。涙の道である。文字で憲法を書き、新聞を出した民が、文字で書かれた条約によって土地を追われた。セコイア自身はそれより前に西へ移っており、1843年ごろ、メキシコへ散った同胞を訪ねる旅の途中で死んだとされる。

涙の道に関わる図版:TrailofTearsMemorial-3
涙の道Wikimedia Commons http://en.wikipedia.org/wiki/User:Cculber007 · Public domain

ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』の文字の章で(物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」)、セコイアを中心の例に置いた。文字を何もないところから発明するのは、人類の歴史で数えるほどしか起きておらず、数百年から千年の積み重ねを要した。ところが、文字というものがあると知るだけで、読み書きのできない一人の男が十数年で一つの文字体系を作れた。ダイアモンドはこれを、発想だけを借りる「アイデアの伝播」の最もはっきりした例と呼んだ。文明の差は、民の能力の差ではなく、何を借りられる場所にいたかの差だ、という本全体の主張を、この一人の仕事が裏づけている。チェロキー文字はいまも使われ、オクラホマとノースカロライナの学校で教えられている。

動画(1)

Investigating the Cherokee SyllabaryCherokee Nationチェロキー国自身による、文字の成り立ちの説明

出典(1)

ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰 訳) 『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』第12章 文字をつくった人と借りた人

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