横浜開港
概要
条約の「神奈川」を、幕府は東海道から外れた寒村の横浜に読み替えた。100戸の村に外国商館と遊郭が建ち、生糸と茶が出て、金が流れ出た。攘夷の浪士が外国人を斬り始めるのも、ここから。
場所
35.44°N 139.64°E · 日本・神奈川県
本文
1858年、幕府はアメリカと日米修好通商条約を結んだ。大老井伊直弼が、天皇の許しを得ないまま調印に踏み切った条約である。条約は、すでに開いていた箱館に加えて、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港し、外国人が住んで商売をすることを認めると定めていた。神奈川の開港は、翌年の7月と決められた。
神奈川は、東海道の宿場町である。外国人がそこに住めば、街道を行き来する大名の行列や、外国人を憎む攘夷の浪士たちと、毎日のように顔を合わせることになる。争いが起きるのは目に見えていた。幕府は、入江をはさんだ対岸の横浜村に目をつけた。100戸ほどの家が並ぶ半農半漁の村で、東海道からは外れている。1854年、マシュー・ペリーとの条約(日米和親条約)が調印されたのも、この横浜村だった。幕府は、横浜も神奈川の一部だと言い張って、ここに港を築くことにした。
アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスや、イギリスの総領事は強く抗議した。条約に書かれたのは神奈川であって、横浜ではない。外国人を辺鄙な場所に閉じこめ、長崎の出島のようにするつもりだろう、と。各国の領事たちは、神奈川宿の寺に領事館を構えた。
だが、外国の商人たちは、横浜を気に入った。水深が深く、大きな船が着けられる。幕府は短いあいだに波止場を築き、税関と役所を兼ねた運上所を建て、日本人の商人の町と外国人の居留地を整えた。のちに居留地のまわりは堀で囲まれ、関所が置かれた。その内側が「関内」と呼ばれる。領事たちの抗議をよそに、商人たちが次々に横浜に店を構え、横浜が事実上の開港地になった。
1859年7月1日(安政6年6月2日)、横浜は長崎、箱館とともに開港した。開港の年のうちに、外国の商館が建ちはじめた。全国から一旗あげようとする日本人の商人も集まった。同じ年の暮れには、港崎に遊郭も開かれた。
いちばんの輸出品は、生糸だった。ヨーロッパでは蚕の病気が広がり、絹の産地が大きな打撃を受けていた。日本の生糸は飛ぶように売れ、開港からしばらくのあいだ、輸出の大半を占めた。茶もアメリカへ多く輸出された。関東から甲信にかけての養蚕の村々は、横浜とつながって潤った。一方で、国内向けの生糸が足りなくなり、京都の西陣などの織物の産地は苦しんだ。
もう一つ、思いがけないものが流れ出した。金である。日本では、金と銀の交換の比率がおよそ1対5だった。ところが世界の相場は1対15ほど。外国人は、銀貨を日本に持ちこんで日本の銀貨に換え、それを金の小判に換えて国外へ持ち出すだけで、元手を何倍にも増やすことができた。流れ出た金の量は、数十万両から百万両を超えるものまで見積もりに幅がある。幕府は1860年、小判の金の量を3分の1ほどに減らした万延小判を出して、ようやく流出を止めた。だが、そのために通貨の値打ちが下がり、物価が激しく上がった。暮らしが苦しくなった人びとの不満は、外国人と、外国と手を結んだ幕府へ向かった。
開港からまもない1859年8月、横浜でロシアの士官と水兵が斬り殺された。翌1860年には、条約に調印した井伊直弼が江戸城の門外で暗殺された(桜田門外の変)。1861年1月には、ハリスの通訳を務めていたオランダ人ヒュースケンが江戸で斬られて死んだ。1862年、横浜からほど近い東海道の生麦村で、薩摩藩の大名行列の前を馬で横切ったイギリス人が斬られた(生麦事件)。横浜の港には、外国の軍艦が並ぶようになった。横浜は、攘夷の的であると同時に、日本が世界に開いた窓でもあった。

明治になると、横浜は日本の表玄関として大きくなった。1872年には、日本で最初の鉄道が新橋と横浜を結んだ(新橋・横浜間の鉄道)。ガス灯、日刊新聞、洋食、西洋の音楽など、多くの新しいものが横浜から日本へ入ってきた。1923年の関東大震災(関東大震災)で町は壊滅し、1945年の空襲で再び焼け野原になったが、そのたびに立ち直った。
横浜市は、開港の日の6月2日を開港記念日としている。この日、市立の学校は休みになる。100戸の寒村から始まった町は、いま370万人あまりが暮らす、日本で2番目に人口の多い市になった。