四国艦隊下関砲撃事件

概要
英仏蘭米の艦隊に砲台を潰された。長州もまた攘夷を捨て、軍備の近代化へ向かう。
場所
33.96°N 130.94°E · 日本・山口県
関わった人(1)
高杉晋作1839年–1867年 · 講和交渉本文
文久3年(1863年)5月10日は、将軍が朝廷に約束した攘夷の期限だった。多くの藩が様子をうかがう中、長州だけがこれを実行に移した。下関海峡を通るアメリカの商船ペンブローク号を砲撃し、続いてフランスの軍艦、オランダの軍艦にも砲火を浴びせた。関門海峡は、長崎と横浜・上海を結ぶ航路の要である。
報復はすぐに来た。翌月、アメリカの軍艦ワイオミング号が海峡に入って長州の軍艦を沈め、続いてフランスの軍艦2隻が砲台を砲撃し、陸戦隊を上陸させて砲台を壊した。それでも長州は砲台を築き直し、海峡の封鎖を続けた。外国船は、下関を避けて遠回りせざるを得なくなった。

イギリスの駐日公使オールコックは、これを放っておけば、攘夷の勢いが他の藩にも広がると考えた。イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4か国は、共同で長州を攻めることを決めた。
このころ、長州の若い藩士5人がひそかにロンドンに留学していた。そのうちの伊藤俊輔(のちの伊藤博文)と井上聞多(のちの井上馨)は、新聞で4か国の攻撃が迫っていることを知り、急いで帰国した。2人は藩の指導者に、外国と戦っても勝てないと説いたが、聞き入れられなかった。
5人は、藩の黙認のもとで1863年に横浜から密かに船出し、ロンドンで学んでいた。伊藤と井上のほかは、山尾庸三・遠藤謹助・井上勝である。のちに山尾は工学の教育を、遠藤は造幣を、井上勝は鉄道を担い、5人はそれぞれ明治の国づくりの柱となった。長州はちょうどその前月、禁門の変で京都に兵を出して敗れたところでもあった。

元治元年8月5日(1864年9月5日)、イギリス9隻・フランス3隻・オランダ4隻・アメリカ1隻、合わせて17隻の艦隊が下関の沖に並んだ。午後に砲撃が始まると、長州の砲台は次々に沈黙した。翌日からは陸戦隊が上陸し、砲台を占領して大砲を持ち去り、火薬庫を焼いた。長州の兵も奇兵隊などが応戦したが、近代的な艦砲と小銃の前に、戦いは数日で決着した。このとき、外国の兵が砲台の大砲のそばで写した写真が残っている。
講和の交渉に、長州は高杉晋作を送った。高杉は、家老の養子という触れ込みで、烏帽子に直垂という正装でイギリスの旗艦に乗り込んだ。通訳として同席したイギリスの外交官アーネスト・サトウは、後年の回想で、高杉の態度を傲然として魔王のようだったと書いている。

交渉で外国側は、賠償金の支払いと、下関の沖の彦島を貸し与えることを求めたとされる。高杉は、攘夷は朝廷と幕府の命令に従ったものだから、賠償は幕府が払うべきだと押し返した。彦島の租借は断った。土地を貸せば、アヘン戦争の後の香港のように外国のものになってしまうと見ていたと伝えられる。ただし、租借の要求と高杉の拒絶の話は、のちに伊藤博文が語った回想によるところが大きく、どこまで正確かは分からない。
結局、賠償金300万ドルは幕府が負うことになった。幕府はその半分を払ったところで倒れ、残りは明治政府が引き継いで払った。アメリカは後年、受け取った分を日本に返している。下関は外国船の自由な通航を認め、海峡の砲台は再び築かないと約束した。
長州が得た教訓は、前年の薩英戦争で薩摩が得たものと同じだった。外国を打ち払うことはできない。まず国の力を付けるしかない。長州はこれ以後、攘夷の看板を下ろしてイギリスとの関係を深め、武器を買い入れて軍を西洋式に改めていく。

戦いのあと、長州の中では幕府に恭順する保守派が一時、主導権を握った。だがその年の暮れ、高杉が下関で挙兵して藩の実権を取り戻し、長州は討幕への道を進んでいく。外国に撃たれた二つの藩、薩摩と長州は、やがて薩長同盟で手を結ぶことになる。