井伊直弼
概要
大老として勅許を待たず通商条約を結び、反対派を弾圧した。桜田門外で暗殺される。
関わったできごと(3)
日米修好通商条約1858年7月29日(安政5年6月19日) · 決断安政の大獄1858年 · 主導桜田門外の変1860年3月24日(安政7年3月3日) · 暗殺された本文
井伊直弼は1815年、近江の彦根藩主井伊直中の十四男として、彦根城の下屋敷で生まれた。井伊家は徳川家康の重臣井伊直政に始まる譜代大名の筆頭で、代々の当主から何人もの大老を出した家柄である。ただ、十四男の直弼が家を継ぐ見込みはほとんど無かった。17歳で父が死ぬと、300俵の捨扶持を与えられ、城下の質素な屋敷で暮らすことになった。直弼はこの屋敷を、世に出ることのない埋もれ木になぞらえて、埋木舎と名づけた。

部屋住みの暮らしは、32歳まで15年に及んだ。その間、直弼は学問と稽古ごとに打ち込んだ。禅を修め、居合を極め、国学を長野主膳に学び、和歌を詠み、能や鼓にも通じた。とりわけ熱心だったのが茶の湯で、石州流を学んで自ら一派を立てるほどになった。のちに著した茶の湯の心得『茶湯一会集』では、茶会は一生に一度の出会いと心得て、主も客も誠を尽くせ、と説いている。一期一会という言葉は、この書によって広まった。
1846年、藩主を継いでいた兄の跡継ぎが病死したため、直弼は思いがけず兄の養子となり、世子に立てられた。1850年、兄の死によって彦根藩主となる。数えで36歳だった。藩主としては、領内を巡って民情を見て回り、藩の財政の立て直しに努めた。
1853年に黒船来航で幕府が諸大名に意見を求めたとき、直弼は、鎖国の祖法を守って打ち払うのは今の武備では無理であり、むしろ交易を開いて国を富ませ、そのうえで武備を整えるべきだ、という意見を出した。攘夷を唱える水戸藩の徳川斉昭とは、ここで考えが分かれた。

1858年、幕府は二つの難題を同時に抱えていた。一つは、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスが求める通商条約の調印である。老中堀田正睦は京都に出向いて天皇の許しを得ようとしたが、攘夷の考えを持つ孝明天皇は勅許を与えなかった。もう一つは、病弱で子のいない将軍徳川家定の跡継ぎ問題である。水戸の斉昭の子で英明の評判が高い一橋慶喜を推す一橋派と、血筋の近い紀州藩主徳川慶福を推す南紀派が争っていた。同じ年の4月、直弼は大老に就いた。南紀派の後押しによる人事だった。
6月、清がイギリスとフランスに敗れたという知らせを携えて、ハリスが、早く条約を結ばなければ英仏の艦隊が押し寄せて、もっと厳しい条件を突きつけるだろうと迫った。直弼は、交渉にあたる役人の岩瀬忠震と井上清直に、できる限り調印を引き延ばせと命じたが、やむを得ないときは調印してもよいかと問われて、そのときは仕方がない、と答えた。二人はその日のうちに日米修好通商条約に調印した。直弼自身は勅許を待ちたいと考えていたともいわれるが、大老として決断の責めを負うことになった。数日後、直弼は将軍の跡継ぎを慶福(のちの将軍徳川家茂)に決めたと発表した。

斉昭らは、定められた日以外に江戸城へ押しかけて直弼を問い詰めたが、直弼は彼らを隠居や謹慎に処した。朝廷では、勅許を待たずに条約を結んだことに孝明天皇が激怒し、幕府を飛び越えて水戸藩に直接、勅書を下した。朝廷が大名に直接命を下すのは、幕府の体制を根本から揺るがすことだった。直弼はこれを、水戸藩と一橋派、京都の公家や志士たちが結んだ陰謀とみなし、徹底した取り締まりに乗り出した(安政の大獄)。
1858年から翌年にかけて、公家、大名、幕臣、藩士、学者、志士が次々に捕らえられた。越前藩の橋本左内、長州の吉田松陰らが死罪となり(吉田松陰の刑死)、獄中で死んだ者や切腹を命じられた者を含めて、処罰された者は百人を超えた。大名や公家も隠居や謹慎に追い込まれ、一橋慶喜も登城を禁じられた。幕府の権威を立て直すための弾圧だったが、厳しすぎる処罰は、かえって多くの人々を幕府の敵に回した。

1860年3月24日、旧暦では3月3日の桃の節句の朝、季節外れの雪が降っていた。登城のために屋敷を出た直弼の行列が、江戸城の桜田門の外に差しかかったところで、水戸藩を脱した浪士17人と薩摩藩士1人に襲われた(桜田門外の変)。供の侍たちは雨合羽を着て刀に柄袋をかぶせていたため、すぐには刀を抜けなかった。最初の銃声で傷を負った直弼は駕籠から出られないまま刺され、首を取られた。満44歳だった。大老が江戸城の門前で討たれたことで、幕府の威信は地に落ちた。幕府は直弼の死をしばらく隠し、病気と取り繕った。
直弼を討った者たちの主張は攘夷だった。だが、その8年後に成立した明治政府は、開国を続けた。条約を結んだこと自体は、当時の国際情勢から見て避けられなかったという見方が強い。勅許を待たなかったことと、反対する者を力でねじ伏せようとしたことが、直弼の命取りになった。

その評価は時代とともに揺れ動いた。明治のはじめには、尊王の志士を弾圧した悪役として語られることが多かった。やがて、開国を決断して国を開いた政治家として見直され、横浜の開港50年を記念して、港を見下ろす丘に銅像が建てられた(横浜開港)。埋木舎で茶と和歌に明け暮れた部屋住みの十四男が、幕府の最後の強い決断を下す役回りを負った。その決断が、皮肉にも幕府の終わりを早めることになった。