人物

勝海舟

Katsu Kaishu
1823年 – 1899年(享年76・推定)
江戸幕府重要度 4

概要

幕臣でありながら幕府の限界を見ていた。西郷と会見し、江戸を戦火から救う。

関わったできごと(1)

江戸無血開城1868年5月3日(慶応4年4月11日) · 旧幕府側

本文

勝海舟は1823年、江戸の本所で、御家人勝小吉の子として生まれた。名は麟太郎、のちに義邦、安芳と名のった。海舟は号である。勝家は将軍に直接仕える旗本・御家人の中でも身分が低く、家禄は41石にすぎなかった。父の小吉は役に就けず、喧嘩と道楽に明け暮れた人で、その破天荒な半生を自ら書いた『夢酔独言』を残している。

勝海舟の肖像
勝海舟の肖像Wikimedia Commons published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) · Public domain

少年時代、麟太郎は縁あって江戸城に上がり、将軍徳川家慶の子の遊び相手を務めた。9歳のとき、野良犬に急所を噛まれて生死の境をさまよい、父の小吉が毎晩水をかぶって回復を祈り続けたという話が伝わっている。剣術を島田虎之助に学んで免許を受け、禅の修行にも打ち込んだ。やがて師に勧められて蘭学を学び始めた。家は貧しく、オランダ語の辞書は高価で買えなかったので、持ち主から借りて1年がかりで2部を書き写し、1部を自分で使い、もう1部を売って生活費に充てたという。20代の終わりには、赤坂で蘭学と兵学を教える塾を開いていた。妹の順は、のちに西洋の兵学者佐久間象山の妻となった。

転機は1853年の黒船来航だった。幕府が広く意見を求めると、麟太郎は、海の守りを固めるには、身分にかかわらず人材を登用し、西洋式の軍艦を備え、交易で得た利益で軍備を整えるべきだ、という意見書を出した。これが幕府の目に留まり、1855年、長崎に新設された海軍伝習所に送られた。オランダ人の教官から、航海術、砲術、造船、数学を学び、およそ4年にわたって伝習の中心にいた。

黒船来航に関わる図版:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen
黒船来航Wikimedia Commons Wilhelm Heine · Public domain

1860年、幕府の使節がアメリカへ渡ることになると、護衛の軍艦咸臨丸が、日本人の手で太平洋を横断することになった。麟太郎は艦の指揮を執る立場で乗り込んだ。ただ、冬の荒れた太平洋で麟太郎は船酔いに苦しんで寝込み、実際の航海は、同乗したアメリカ海軍の軍人たちに頼るところが大きかった。それでも、40日近くかけてサンフランシスコに着き、日本人がアメリカの社会を自分の目で見たことは大きな経験になった。帰国した麟太郎は、アメリカでは身分の高い者がそれにふさわしく賢い、と幕府の老中に答えたという。

その後、軍艦奉行並となった麟太郎は、幕府や藩の区別を超えた日本全体の海軍を作るべきだと説き、1864年、神戸に海軍操練所を開いた。幕臣だけでなく、諸藩の若者や浪人も受け入れた。土佐を脱藩した坂本龍馬は、ここで麟太郎の門下に入った。龍馬が麟太郎を斬るつもりで訪ねて、話を聞くうちに心服して弟子になった、という有名な話は、後年の海舟の談話によるもので、どこまで事実かは分からない。龍馬自身は姉への手紙で、日本第一の人物、勝麟太郎の弟子になった、と誇らしげに書いている。

同じ1864年、麟太郎は大坂で、薩摩の西郷隆盛と初めて会った。麟太郎は、幕府の役人にはもう国を任せる力は無い、雄藩が手を結んで国を動かすべきだ、と率直に語った。西郷は、大久保利通に宛てた手紙で、どれほど知略があるのか底が知れない人物だ、と驚きを書いている。だが、幕府の中でこうした言動は危険視された。操練所に反幕府の浪人が出入りしていることも問題にされ、その年の暮れに麟太郎は職を解かれ、操練所も閉じられて、2年近く謹慎させられた。1866年の第二次長州征討では、呼び戻されて長州との停戦の交渉にあたったが、交渉をまとめた直後に将軍慶喜に梯子を外され、面目を失っている。

第二次長州征討に関わる図版:Operations map of the Second Choshu Expedition by Sakamoto Ryoma
第二次長州征討Wikimedia Commons Sakamoto Ryoma · Public domain

1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、徳川慶喜は江戸へ逃げ帰った。新政府軍が江戸に迫るなか、恭順を決めた慶喜は、陸軍の責任者に麟太郎を据え、事態の収拾を託した。麟太郎は、旧幕臣の山岡鉄舟を駿府の西郷のもとへ送って下交渉をさせたうえで、3月、江戸の薩摩藩邸で西郷と会った。慶喜の身の安全と江戸城の明け渡しの条件を話し合い、西郷は翌日に予定されていた江戸への総攻撃を取りやめた。交渉が決裂した場合に備えて、麟太郎は、江戸の火消しや侠客の親分に頼んで、町に火を放って敵の進軍を阻む手はずを整え、町人を逃がす船も集めていたと語っている。4月、江戸城は戦わずに明け渡された(江戸無血開城)。百万の人が住む町が、戦火を免れた。

維新の後、海舟は徳川家とともに静岡へ移り、旧幕臣たちの暮らしを支えることに力を注いだ。やがて明治政府に招かれ、海軍卿や元老院議官、枢密顧問官を務め、伯爵となった。一方で、西南戦争で賊軍とされた西郷の名誉の回復に尽くし、上野に西郷の銅像が建てられたとき、その除幕式に立ち会った。晩年には、明治天皇と慶喜の対面を実現させている。

1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影
1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

旧幕臣でありながら新政府の高官となった海舟に、厳しい目を向ける者もいた。福沢諭吉は「瘠我慢の説」を書いて、主家を滅ぼした敵の政府に仕えるのは士の節義に反すると批判した。海舟はこれに、行いは自分のもの、それをけなすもほめるも他人の勝手、と短く答えたという。海舟自身も、旧幕臣が新政府で高い地位に就くことを、どこか冷ややかに語っていた。

晩年は、東京赤坂の氷川の邸で、訪ねてくる人々を相手に、時事を論じ、昔を語った。その談話を記者がまとめたのが『氷川清話』で、歯切れのよい江戸言葉で語られた人物評や回想は、いまも広く読まれている。ただし、聞き手が手を加えた部分や、本人の記憶違いや誇張も多く含まれていると考えられている。1899年1月19日、75歳で死んだ。最期の言葉は、これでおしまい、だったと伝えられる。

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