第二次長州征討

概要
幕府軍が長州に敗れた。将軍の命令で諸藩が動かないことが、誰の目にも明らかになる。
場所
33.96°N 130.94°E · 日本・山口県
関わった人(1)
高杉晋作1839年–1867年 · 長州側本文
元治元年(1864年)、禁門の変で朝敵とされた長州に、幕府は最初の征討軍を差し向けた。このときは、長州が三家老の首を差し出して恭順したため、戦いにはならずに終わった。ところがその年の暮れ、高杉晋作が下関で挙兵して藩の保守派を倒し、長州は再び幕府に対抗する姿勢に戻った。
長州は軍の立て直しを急いだ。軍制を任されたのは、蘭学と西洋兵学を修めた大村益次郎である。武士だけでなく、農民や町人も加えた諸隊に、新式のミニエー銃を持たせて訓練した。銃は長崎のイギリス商人グラバーから、薩摩の名義を借りて買い入れた。その仲立ちをしたのが、坂本龍馬らの亀山社中だった。
幕府は慶応元年(1865年)、長州の再征を決め、将軍徳川家茂が大坂城に入った。だが諸藩の腰は重かった。前回の征討で疲れていたうえ、長州を討つ大義がはっきりしないと見る藩が多かった。翌慶応2年1月には、薩摩と長州がひそかに手を結ぶ(薩長同盟)。4月、薩摩は幕府に対し、出兵を断る文書を出した。

幕府は長州に、領地の削減と藩主父子の隠居などを求めたが、長州はこれを受け入れなかった。6月、幕府側の軍艦が周防大島を砲撃して戦いが始まった。戦場は長州の四方の国境に及んだため、長州では「四境戦争」と呼ぶ。大島口・芸州口・石州口・小倉口の四つである。
大島口では、一度は幕府方の松山藩兵などに島を占領されたが、高杉が軍艦で夜襲をかけ、長州の兵がすぐに奪い返した。芸州口では、彦根藩や高田藩といった譜代の名門の兵が、旧式の甲冑と火縄銃で戦い、散開して撃つ長州の兵に押し戻された。幕府の陸軍の洋式部隊は善戦したが、戦線を覆すには至らなかった。

幕府側が動員した兵の数は十数万とも言われるのに対し、長州が前線に出した兵は数千ほどだったとされる。ただ、幕府側の多くは諸藩から寄せ集めた兵で、戦意も装備もまちまちだった。石州口では大村益次郎が自ら指揮して進み、幕府側の浜田藩の城下まで攻め込んで、藩主を逃げ出させた。
最大の戦場は、関門海峡を挟んだ小倉口だった。高杉は海峡を渡って幕府方の陣地を攻め、坂本龍馬も船を率いてこの海戦に加わっている。幕府側の総督・小笠原長行は軍艦で戦場を離れ、小倉藩は孤立した。8月、小倉藩は自ら城に火を放って退いた。

その少し前の7月20日、将軍家茂が大坂城で病死していた。満20歳だった。跡を継ぐことになる一橋慶喜(のちの徳川慶喜)は、はじめ自ら出陣して巻き返すと宣言したが、小倉城が落ちたと聞くと取りやめた。将軍の喪を理由に戦いを止め、勝海舟を安芸の宮島に送って長州と休戦の交渉をさせた。
家茂は、公武合体のために孝明天皇の妹を妻に迎えていた(和宮降嫁)。病は脚気が心臓に及んだものとされる。上洛と大坂での長い滞在の末に、戦の結末を見ないまま世を去った。

数のうえでは、幕府側は長州をはるかに上回る兵を動員していた。それが一つの藩に四方で押し返された。決定的だったのは、勝敗そのものより、将軍が命じても諸藩が本気で動かないことが、誰の目にも明らかになったことである。幕府の命令が、もはや命令として通らない。
戦いは、庶民の暮らしにも重くのしかかった。軍の兵糧の買い付けもあって米の値段が跳ね上がり、この年の夏には大坂や江戸で打ちこわしが相次ぎ、武蔵では大規模な世直し一揆が起きた。幕府は、戦場の外でも統治の力を問われていた。

戦いのあと、慶喜は15代将軍に就き、フランスの援助を受けて幕府の軍制改革を進めた。一方、薩摩と長州は武力で幕府を倒す方向へ傾いていく。高杉は翌年、結核のため満27歳で世を去り、大政奉還を見ることはなかった。大政奉還は、この戦いで露わになった幕府の無力さの上にある。