タウンゼント・ハリス
概要
ニューヨークの商人が初代駐日総領事として下田に着き、1年半待たされ、江戸に出て将軍に会い、通商条約を結んだ。アヘンを禁じ、関税を認めさせた。「お吉」の話は後の作り。ペリーが開けた戸を、彼が通った。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
日米修好通商条約1858年7月29日(安政5年6月19日) · 総領事本文
タウンゼント・ハリスは、1804年、ニューヨーク州の北部の村サンディ・ヒルで、帽子作りの家に生まれた。学校には長く通わず、10代で兄とともにニューヨーク市で陶器の輸入の商いを始め、独学で本を読んだ。生涯、結婚はしなかった。

ニューヨークで、ハリスは市の教育委員会の会長を務め、貧しい家の子どもでも学べる無料の高等教育の学校を作ることに力を尽くした。1847年に開かれたその学校は、のちにニューヨーク市立大学のシティ・カレッジになった。だがやがて事業は傾き、母を亡くした彼は、1849年、40代半ばで船に乗ってアジアへ渡り、6年ほど、太平洋とインド洋の港を巡って交易に携わった。
1854年、マシュー・ペリーが日本と和親条約を結び(日米和親条約)、条約によって下田にアメリカの領事を置けることになった。アジアの事情に通じたハリスは、自ら名乗り出て、1855年、ピアース大統領から初代の駐日総領事に任じられた。日本へ向かう途中、タイに立ち寄って、アメリカとの条約を改める交渉もまとめている。

1856年8月、ハリスはオランダ生まれの通訳ヒュースケンを連れて、伊豆の下田に着いた。幕府の役人たちは、領事が来ることを望んでおらず、条約の文の解釈をめぐって、来日そのものを認めまいとした。ハリスは押し切って、町はずれの玉泉寺に星条旗を掲げ、アメリカの最初の領事館とした。だが、通商を求めて江戸へ出たいという彼の願いは、1年以上にわたって退けられ続けた。病に苦しみ、孤独な日々を日記に書きつけた。牛乳を求めて地元の人に牛を手配させたという話も伝わり、玉泉寺にはそれを記念する碑が建てられている。
下田の奉行所は、病のハリスの世話をさせるため、町の娘きちを送った。きちは数日で帰されたが、明治以後、彼女が意に反してハリスの妾にされた悲劇の女性「唐人お吉」として、小説や芝居で語られるようになった。こうした話の多くは後の脚色とされる。きちは晩年、貧しさの中で、1890年に川に身を投げて死んだ。
1857年の末、ハリスはようやく江戸に上ることを許された。下田から東海道を行列で進み、江戸城で将軍徳川家定に会って、大統領の手紙を差し出した。続いて老中の堀田正睦の屋敷で、長い演説をした。イギリスは中国とのアヘン戦争に勝ち(アヘン戦争)、強大な艦隊でまもなく日本にも来るだろう。その前に、穏やかなアメリカと公正な条約を結んでおくべきだ、と彼は説いた。

交渉は1858年の初めから続いた。ハリスは、アヘンの持ち込みを禁じることと、日本が輸入品に関税をかけることを条約に入れた。一方で、日本にいるアメリカ人の罪はアメリカの領事が裁くこと、関税の率を日本だけで変えられないことも定められた。幕府は天皇の許しを得ようとしたが、得られなかった。1858年7月29日、大老の井伊直弼の決断で、江戸湾に停泊したアメリカの軍艦ポーハタン号の上で、日米修好通商条約が調印された(日米修好通商条約)。ほかの国々もこれにならって条約を結び、その不平等な部分を改めることが、明治の日本の長い課題になった。輸入品の関税は、のちの取り決めで大きく引き下げられた。
1859年、ハリスは公使となって江戸に移り、麻布の善福寺に公使館を置いた。1861年1月、通訳のヒュースケンが、夜道で攘夷派の武士たちに斬られて死んだ。イギリスやフランスの公使は、江戸は危険だとして横浜へ移ったが、ハリスは、幕府を責めるより助けるべきだとして、江戸にとどまった。
1862年、病に悩んだハリスは職を辞して帰国した。その後はニューヨークで静かに暮らし、1878年2月25日に73歳で死んだ。日本の不平等条約の生みの親として批判されることもあるが、ハリス自身は、イギリスがアヘンで中国を苦しめたようなことを日本で繰り返させまいとしたと考えていた。下田の玉泉寺には、ハリスとヒュースケンの記念の品が残り、お吉の墓は町の別の寺にある。